「ギフネット」東京岐阜県人会報 2006年4月(年2回発行)

大河ドラマの主人公“山内一豊の妻・千代は郡上の生まれ”

   歴史が変わる 戦国史に新しい光

     山内一豊夫人顕彰会 会長 川上朝史

2006(平成18)年のNHK大河ドラマは「功名が辻」(原作:司馬遼太郎)です。主人公は山内一豊とその妻です。400年昔の戦国時代に20余万石の土佐の領主となった勝ち組です。出世の影には「その妻」の活躍がありました。夫より「その妻」の方が名高い二人が亡くなると、特に実子のない「その妻」の名が山内家から消され始めました。山内家が幕府へ出した系図にも後年、突如、近江出身の妻が出てきました。明治・大正・昭和の国定教科書には妻が夫に名馬を買い与えた話が載りました。昭和38年(43年前)には、歴史作家の司馬遼太郎作「功名が辻」が出され明るい千代が話題となり広まりました。近年、美濃郡上の遠藤盛数の娘とする説の研究が進み、新しい事実もいくつか出てきました。史料のあいまい近江説から一転、郡上説極めて有力と、ドラマの千代役・仲間由紀恵さんとともに、注目を浴びています。今日はそのお話を話しましょう。

郡上の系図(慈恩禅寺蔵・郡上八幡)【系図ー写真1】【系図ー写真2


その1
は、千代の兄・遠藤慶隆の建てた郡上八幡の慈恩禅寺に残る系図です。遠藤盛数の女
()が山内対馬守御室と書かれたものです。郡上美濃には、他にもいくつか系図があり、ほぼブレはありません。

土佐の系図(高知県立図書館蔵)【写真3】


その2
は、高知県立女子大学名誉教授だった故丸山和雄氏が写した写真です。遠藤三十郎は見性院の2番目の兄・遠藤慶胤の末子です。元和3年
(1617)12月に見性院が京都で死去します。その一ヵ月後の1月に三十郎は江戸で“御由緒を以って”土佐藩に召抱えられました。明らかに実子のない見性院からの生前の遺言でしょう。その三十郎の子孫が藩に出した系図にも“遠藤盛数の娘で慶隆・慶胤妹は山内対馬守御室”とありました。見つけたときの丸山先生の手紙には、時間と空間を遠く隔てた郡上の系図とぴったり一致していることへの驚きと感激が書かれています。郡上の運動に一気に弾みがつき銅像建設の気運が高まりました。

陣立て(長浜歴史博物館蔵)【写真4】


その3
は、秀吉の戦のときの陣立てでした。そこには、なんと千代の夫・山内一豊(伊右衛門)と、千代の兄・遠藤慶隆
(左馬助)、それに千代の従兄の遠藤胤基(郡上の遠藤本家・大隈守)、千代の2番目の兄(慶胤)嫁の家の佐藤六左衛門(美濃市)が3番グループにいるのです。強い血縁で一団を形成しているとすぐ分かります。一豊夫妻ゆかりの地が年に1度集う「一豊&千代サミット」の長浜城内で一人震える興奮を抑えて写真を撮りました。赤い秀吉の大きな朱印が一際眼に焼きつきます。(富山の佐々成政攻め・天正13年)

古今和歌集


その4
は、山内家に伝わる古今和歌集です。特に一昨年、山内家の唯一の国宝「古今和歌集 巻第二十」
(高野切)を高知県が7億円(県の依頼鑑定では96800万円、平成8年の国の評価は12億円)で買ったことが大きな話題になりました。(他に36000点の山内家の宝物は無償で高知県に渡されました。)他にも山内家は江戸時代に将軍家へいくつも古今和歌集を献上しています。その中に、なんと、郡上の領主で古今和歌集研究の第一人者、宗祇に古今伝授したあの“東常縁”直筆の古今和歌集が含まれていたのです。なぜ、土佐の山内家に国宝や郡上の東常縁の「古今和歌集」があったのか。山内家の記録を調べてもこれらが他所から入ったと言う記録は一切ありません。ただ一ヵ所にのみ、その「古今和歌集」の名が出て来るのです。それは、見性院(千代)が死ぬ間際に、2代目藩主の山内忠義に自分の形見の品として「古今和歌集」「徒然草」を渡してくれと、妙心寺の湘南和尚(実は彼こそは、見性院が赤子のときから10歳になるまで養育した“お拾”です。)に頼んだ、という箇所なのです。山内家でも「古今和歌集」は見性院から来たのでは、といわれます。

では、なぜ千代はそのような「古今和歌集」を手にできたのでしょう。実はその謎を解く鍵は、「千代の母」(法名:友順尼)にあるのです。母は初代郡上八幡城主となる遠藤盛数の妻です。彼女の父・東常慶こそ、13代目郡上の領主で11代東常縁(系図の孫なのです。彼女は盛数と結婚後5人の子供をなしますが、盛数は永禄2年(1559)彼女の父・東常慶を滅ぼすのです。その盛数も3年後に斉藤龍興の稲葉山城下(岐阜)にて病気で死にます。未亡人となった母は龍興の伯父の永井隼人と再婚を余儀なくされます。隼人は織田信長と徹底抗戦し近江浅井氏へ流れ遂には戦死します。幼い千代はこの母と共に流浪をし親戚の北方・安東家、或いは竹中・不破氏あたりに潜伏成長したことが考えられます。(安東家は一豊の姉・通が嫁いでいました。)これで、山内家の「古今和歌集」はこの母を通じて千代に渡ったと考えることができるのです。

以上、今回は4つの面から郡上の遠藤氏説を展開してみました。
※ 会のホームページは「山内一豊の妻」で検索すると、すぐ御覧になれます。(川上)

 写真5】 (母の故郷・古今伝授の里)

 最後に、千代の母は、永井隼人の死後、生まれた郡上に戻ります。そこへ信長から追われて郡上で3年間隠棲した本願寺の教如上人と会い、彼に発心して「照用院釈友順」と法名をもらいます。天正10年、東家遠藤家菩提寺の乗性寺(郡上市美並町)で亡くなります。

また、一豊、千代、二人とも過去を語れない謎の期間が12年以上あります。お互いの父親が信長の敵だったからです。(※ 一豊の父・山内盛豊、千代の父・遠藤盛数

   

写真6】(一豊と千代の銅像)

会のホームページは「山内一豊夫人顕彰会」で検索すると、すぐ御覧になれます。

                            2006年(平成18)4月18日 このホームページに掲載
より理解をしやすくするため下線部に写真・史料等をリンクをしました(クリックを)
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