悲劇の友順尼
教如上人 信長の難を逃れ郡上の山奥へ。千代の母・友順尼を得度。
乗性寺と友順尼
←教如の自署がある。
「寿像」といい、生前中の絵像。
福常寺
(郡上市
八幡町那比)
「山内一豊夫人顕彰会」へ
「鷺森旧事記(さぎのもり・くじき)」の記録
(教如が郡上へ来た事が書いてある)

住居跡写真
千代の母は、郡上領主・東常慶の娘で分家の遠藤盛数と結婚する。
盛数が病死後、関城主・永井隼人と再婚。隼人は信長と戦い戦死する。
生まれ故郷へ戻った母を、郡上隠棲中の教如が得度した。

教如は後に東本願寺の第一世となる。