教如上人、郡上での隠れ屋敷跡
                      郡上市 明宝 西気良 天正8年(1580)
に庵を結び三年御在住の旧跡なり
八代八右衛門を便り来り玉い此処
石山戦争の時
織田信長の害を避け
世話をした八代八右衛門の板碑
教如上人が使った手水鉢。
地元明宝での慰霊祭風景
教如上人、郡上に隠れ住む
 10年間に及んだ大坂石山合戦後の天正8年(1580)、信長の追っ手から逃れるため、安養寺(当時は郡上市白鳥町大島)などの手引きもあって、郡上市美並町苅安の乗性寺に匿われた教如上人は、更に山奥で今の郡上市明宝西気良の山中で
3年近くを隠れ住みました。
 山内一豊の妻・見性院の母・友順尼が教如上人と会い、得度を受けたことなど、目にみえぬ縁の糸が郡上にはあります。この時の教如上人の住まわれた住居跡は明方の山中に「教如屋敷」としてひっそりと残っています。手引きし世話をした八代八右衛門の薄い岩の板碑もあります。見晴らしのきく高い場所で、手水鉢が424年前を甦らせます。   2004年 秋
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教如上人が郡上へ逃れたことを示す古文書「鷺森旧事記」