昭用院殿釈友順
(※)永禄10丁卯歳7月
(下の※印に、天正10の誤りと記す)
右は東六郎左衛門平盛数公奥方。
盛数公永禄5年卒去の後、信長公叔父斉藤右兵衛佐龍興の舅永井隼人方へ御再縁。
埴生太郎左衛門尉高照御付人にて岐阜へ参る。
隼人討死の後、教如上人へ発心し昭用院釈尼友順と改名ある。
高照も西教坊照山とたまわり当山17世庵主となる。教如上人像
(※)永禄10年(1567)死去では、教如がまだ10歳で得度前であるため彼に発心などできない(教如は13歳で得度した)。昭用院釈友順の死去は「永禄」ではなく「天正」10年(1582)の誤りである。ちょうど、この頃なら、数年前から教如上人が23〜25歳で郡上へ遁れ棲んでる時期に重なる。
また、永井隼人の討死は天正元年(1574)なので、永禄10では、彼の7年も前に死んだことになり、隼人討死の後教如に発心が、有りえなくなる。
なお、この過去帳を作成したと思われる享和(1801〜1804)の年号が右下に見られる。乗性寺は火災にあっている。