山内一豊夫人 お千代様の出生地に関する説について(従来の近江出生地説の検証)下線部クリック | ||||
項 目 | 出生地説内容 | 裏づけの資料等の検証 | 検証の結果 | |
系図について (1) |
寛永年間(1624〜1644)の「寛永諸家系図伝」。 | 最も古い系図。記載なし | 見性院の没後7〜27年後のころ。 | |
系図について (2) |
寛政9年から文化9年(1799〜1812)に作られた「寛政重修諸家譜」。 | 若宮女の記載あり。 | 見性院の没後195年も後のこと。 | |
1 | 若宮女「まつ」について | 近江(滋賀県近江町)では『千代』は浅井家の家臣・若宮喜助友興の娘 『まつ』と言われている。 | 浅井長政の『まつ』宛ての安堵状がある。 若宮女『まつ』の父・若宮左馬助が永禄9年(1566)戦死したとき、長政が『まつ』に与えた手紙には『御まつ御料人』となっている。 | 『まつ』は若宮左馬助の娘である。 |
2 | 若宮氏女(五藤家の墓)について | 山内家家老・五藤為重の妻は若宮氏の娘である。 (※正確には為重は中老で、その子の代に家老職に) |
安芸市の五藤家の墓地に五藤為重の妻の墓があり『五藤為重妻若宮氏墓』と刻まれている。 | 若宮氏女『まつ』は、山内家中老となる五藤為重と結婚した。 |
3 | 若宮氏女の従者の手紙「牛尾田文書」について 決定的な重要文書 |
若宮左馬助の娘は五藤為重に嫁いだ。 | 若宮女『まつ』が嫁入り時に付き添った4人の従者の内「牛尾田」という従者が、婚礼後に郷里へ報告した手紙には『左馬助様 御息女様 五藤内蔵助殿 御縁組』と書いてある。五藤内蔵助とは五藤為重のことである。 | 『まつ』は五藤家へ嫁入りした。山内家でない。 |
4 | 若宮『外記仲間』について(決定的な重要事実) | 近江町に若宮『外記仲間』と称する集りがある。約19戸で、昔、長政より安堵された土地を管理しその収入で、若宮左馬助(円融庵成信士)とマツ=千代(見性院)の法要を営んでいる。 | 若宮『外記仲間』の方々に『外記』の由来を尋ねたところ全く知らずに使っておられる事が分かった。一方、五藤家の系図を調べると世襲的に『外記』を用いていた。『外記』は書記に関する役職の名称である。山内家には『外記』はない。 | 若宮『外記仲間』は若宮氏女が嫁いだ五藤家に由来するものである。 |
5 | 近江町宇賀野「長野家由緒書」について | 一豊の母・法秀院の使った武佐枡・青銅鏡・鏡箱・一豊花押付き手紙などがあると記述。 | 一豊死後216年も経た文政4年(1821)の文書。山内家家史編纂主任の沼田頼輔博士がことごとく疑問を呈し、枡・青銅鏡・花押文書を後世の偽作と喝破している。「一豊公紀」(山内家) | 一豊死後、216年後の全くの作り物である |
※ | 名前「まつ」について | 近江では『千代』は浅井家の家臣・若宮喜助友興の娘『まつ』と言われている。 | 京都妙心寺大通院の廟所の案内板には夫人の名が『マツ』と刻まれている。『千代』でない。この案内板は昭和37年7月のもの。近江では幼名が『まつ』で成人後『ちよ』と称したと言っている。 |
幼名を「廟所」に記するは奇異。 |
結論は太字に→ | 近江では千代の父の名は若宮左馬助=若宮喜助友興と考えられていたが、左馬助女『まつ』は五藤家へ嫁入りしたことが確定した。『千代』とは別人である。そのため近江では、従来の近江説≠捨て、“左馬助とは別人の若宮喜助友興”を必死に探されているが実在の記録は見つかっていない。 また、千代の母の父・石河小四郎なる人物も実在の記録がない。 |
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郡上出生説一覧表へ | 郡上遠藤説の記録・傍証が確かなため、定説とされた若宮喜助友興・石河小四郎の両人の記録は、理由はわからないが、後世の偽作としか考えられない。 |