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山内一豊・妻「見性院」(千代)、兄・遠藤慶隆&慶胤年譜(年齢付き)

西暦 和暦 山内一豊 山内一豊 山内一豊 見性院 見性院 見性院(千代) 慶隆 慶胤 千代の兄慶隆・慶胤一族 マツ/その他
尾張 木曽川町黒田。父・盛豊。 岩倉付近 母方の東(とう)家は鎌倉時代「承久の変」の功で千葉県東庄より郡上へ。 ※慶隆祖先は東常縁の兄「氏世」は安東家へ入っている。
1545 天文14 1 尾張黒田生(1546年説あり)※姉・通姫(1533生れ)、安東伊賀守守就養女に。後、弟郷氏室 以後330年余郡上を治める。歴代城主は勅撰和歌集に名を連ねる和歌の名家。文明3年(1471) 天文9年(1540)越前朝倉勢篠脇城攻め(荘厳講執事帳)(土岐政頼と朝倉孝景の連合軍:土岐政頼は土岐頼芸に攻められ朝倉に逃避中) 信長12才・秀吉10才・家康3才
1546 天文15 1 2 宗祇に「古今伝授」した東常縁が特に名高い。 天文10年、東常慶(見性院の祖父)赤谷山へ築城
1547 天文16 2 3
1548 天文17 3 4
1549 天文18 4 5 慶隆
1550 天文19 5 6 弟・康豊生 1 慶隆生
1551 天文20 6 7 2 慶胤
1552 天文21 7 8 3 1 慶胤生?。父盛数福野城を攻め河合氏の領地を得、林光院山に(鶴の尾山城)
1553 天文22 8 9 4 2
1554 天文23 9 10 妹・合姫生 ※後に長井源兵衛利直(安東の同族)に嫁ぐ (永井・丸山説) 5 3 慶直生?
1555 弘治1 10 11 6 4
1556 弘治2 11 12 千代 父・遠藤盛数
母・東家13代東常慶女
7 5 長女生?
1557 弘治3 12 13 兄・十郎重豊死。父・盛豊負傷。母等と岩倉城へ。 1 生(人名大辞典) 8 6
1558 永禄1 13 14 2 9 7 次女生?
1559 永禄2 14 15 父・盛豊死(岩倉落城)。尾張苅安賀城(浅井)信長急襲。 3 母の父(東常慶)婿盛数と戦う。常堯は内ヶ島氏逃避 10 8 父・盛数八幡城を築く。(東殿山の合戦8月14日から24日)
1560 永禄3 15 16 美濃松倉城へ(前野長康)。流寓(母梶原氏・弟妹と)。 4 1 生(他の兄弟からみて永禄3年説の方がよい) 11 9 三女生(見性院)? 桶狭間の合戦。信長が今川義元を破る。(5月)
1561 永禄4 16 17 この年から元亀3年の間は「一豊公紀」には何の記録もない。謎の12年間です。(空白期間) 5 2 父・遠藤盛数、墨俣で信長軍に大敗。負傷。家族を全員岐阜へ呼び寄せる 12 10 父・遠藤盛数、墨俣で信長軍に大敗。負傷。家族を全員岐阜へ呼び寄せる
1562 永禄5 17 18 6 3 父・盛数(郡上八幡城主)死去。岐阜井ノ口の斎藤氏・稲葉山の下にて 13 11 父・盛数、井ノ口(岐阜)で死去。慶隆13歳で家督を継ぐ。
1563 永禄6 18 19 7 4 母・永井隼人(道利)へ再婚 14 12 母・永井隼人(道利)へ再婚
1564 永禄7 19 20 8 5 稲葉山母の所に居る(8月15日)。深瀬村へ避難。 15 13 竹中・安東が稲葉山襲撃。稲葉山母の所に居る(8月15日)深瀬村へ避難。郡上、胤俊(大隅守)の内乱
1565 永禄8 20 21 9 6 9月信長、隼人の関安桜城襲う。美濃残党狩り 16 14 本巣北方の安東伊賀守守就娘(姉は竹中半兵衛妻)と結婚
1566 永禄9 21 22 10 7 隼人と近江浅井へ逃げる。母も一緒。 17 15 郡上の両遠藤が和して、千代姉が胤俊弟と結婚。慶隆娘誕生(のち金森宗和母・室町殿となる人)妻・安東伊賀守娘死去 御まつ御料人へ(浅井長政から所領安堵状・若宮左馬助戦死)8月9日(マツ5歳)
1567 永禄10 22 23 11 8 流寓始まる。(高橋教雄説では、千代は郡上本領安堵の人質になる。 18 16 信長岐阜を占領。
1568 永禄11 23 24 山岡美作守に仕える(近江瀬田)200石 12 9 19 17
1569 永禄12 24 25 13 10 (高橋教雄説では、人質を解放され安東家へ養女に 20 18 飛騨三木自綱郡上攻め。慶隆は三木氏娘を娶る。
1570 元亀1 25 26 姉川合戦、秀吉麾下?。(6月29日)近江小谷城。叡山は朝倉方。 14 11 姉川合戦浅井敗れる。隼人敗走か 21 19 信長の軍事行動要請。信長軍へ参加。横山城・姉川合戦参加。信長軍。堅田で惨敗。遠藤胤俊戦死、家来500余名死ぬ。
1571 元亀2 26 27 (高橋教雄説では、千代とこの頃結婚。26歳。 15 12 (高橋教雄説では、千代はこの頃結婚。15歳。 22 20 次男慶胤結婚(妻は佐藤六左衛門娘)
1572 元亀3 27 28 16 13 本願寺・教如が朝倉義景の娘と結婚。反信長体制とる。 23 21 八幡へ帰る。武田と織田へ両面外交し苦悩。 信玄12月、三方ヶ原の合戦で信長・家康連合軍を破る
1573 天正1 28 29 秀吉に仕える。越前朝倉刀根坂の戦い。「一豊公紀」近江長浜唐国400石、
この頃に結婚か
17 14 永井隼人討死。
この年頃結婚か。
24 22 信長郡上攻め。(立花山で平謝り・武田信玄へ内通露見) 信玄4月死去。信長足利義昭を追放。朝倉浅井を攻める
1574 天正2 29 30 18 15 25 23 秀吉、長浜城に。
1575 天正3 30 31 長篠の役 手勢250人 19 16 26 24 日根野備中守と越前一向一揆弾圧の郡上案内役。慶胤が慶隆名代長篠の役で戦う。 信長、長篠合戦で武田勝頼を破り、長島・越前一向一揆弾圧
1576 天正4 31 32 播磨有年(うね)700石 20 17 名馬購入伝承はこの頃か。 27 25 信長、安土城築く
1577 天正5 32 33 同2000石に加増。(秀吉中国攻略に参加) 21 18 28 26
1578 天正6 33 34 22 19 29 27
1579 天正7 34 35 23 20 30 28
1580 天正8 35 36 信長、安東伊賀守一族を武儀郡谷口に蟄居さす。 24 21 与祢姫生れる
母、教如に得度受ける(友順尼)
31 29 新六郎から左馬助に改名。娘を金森可重に嫁す、15歳。後に室町殿、茶の宗和母 10年続いた石山合戦終り顕如信長に屈服。教如隠棲、郡上へ。
安東伊賀守、武田内通の疑いで所領没収され武儀町谷口へ
1581 天正9 36 37 25 22 32 30
1582 天正10 37 38 北方安東家、6月稲葉一鉄父子に滅ぼさる。幼少の郷氏の子、竹中半兵衛方に蟄居。(母・通と) 26 23 母・友順尼が美並村戸谷庵(乗性寺)で死去。 33 31 天目山の戦い。金森と共に参戦。板取長屋氏攻め。太郎丸深尾和泉守を攻め慶隆名代の慶胤負傷。 甲斐天目山で武田勝頼自刃。6月本能寺の変、信長死す
北方安東家、6月稲葉一鉄父子に滅ぼさる。
1583 天正11 38 39 27 24 34 32 立花山の戦い。織田信孝に味方、秀吉に下る。閏1月終る。秀吉伊勢滝川攻め参戦。 前年より秀吉、信長三男信孝(岐阜城)と不和。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家自刃。
1584 天正12 39 40 小牧長久手合戦。8月。慶隆と同陣で700名、両遠藤600。佐藤六400。秀次宿老。長浜5000石。 28 25 35 33 小牧長久手合戦。一豊と同陣。両遠藤600名。佐藤400名。山内700名。両日根野1500名。8月。(遠藤死者多数)
1585 天正13 40 41 富山佐々攻め。7月。慶隆と同陣700名。両遠藤・佐藤六600。高浜4ヶ月7000石(19870石?)。長浜3万石。 29 26 地震で与祢姫死す。
長浜大地震
大通院
36 34 富山佐々成政攻め。一豊と同陣。手勢200名。木越遠藤200名。一豊700名。7月。秀吉の飛騨三木自綱攻め。金森長近に加勢。弟・遠藤慶直戦死。従兄胤安負傷。 小牧長久手で秀吉、織田信雄・家康連合軍と戦う。苦戦和睦。
1586 天正14 41 42 生母梶原氏死去。(法秀院) 30 27 37 35
1587 天正15 42 43 対馬守となる。 31 28 「お拾い」(湘南和尚)養育。 38 36 秀吉九州攻め参戦。木越遠藤胤安戦死46歳。
太閤検地。郡上を調べる
秀吉の九州攻め。
1588 天正16 43 44 32 29 39 37 慶隆、左遷。郡上約2万7千石没収。東美濃に1万4千石、近江日野1千石。稲葉貞通八幡城主に。慶隆は小原、胤基は犬地、慶胤は日野か。
1589 天正17 44 45 小田原攻め宣言、翌年3月出兵。 33 30 40 38
1590 天正18 45 46 掛川5万石受封(10年間在住)。9月 34 31 41 39 小田原攻め参戦。 秀吉小田原(北条氏)攻めで国内統一
1591 天正19 46 47 35 32 42 40 羽柴秀長死去(秀吉異父弟)
1592 文禄1 47 48 朝鮮出兵免れる弟・康豊の子生れる(忠義) 36 33 43 41 文禄の役(秀次下で)参戦朝鮮へ。この頃、慶胤11子生(三十郎) 秀吉、文禄の役で朝鮮出兵
1593 文禄2 48 49 遠州検地(太閤検地) 37 34 44 42 〃  (2年間) 秀頼生れる(8月)
1594 文禄3 49 50 38 35 45 43 伏見城を竣工
1595 文禄4 50 51 39 36 46 44 秀次切腹
1596 慶長1 51 52 40 37 「お拾い」出家。妙心寺南下国師に学ぶ 47 45
1597 慶長2 52 53 41 38 48 46 慶長の役で朝鮮出兵。
1598 慶長3 53 54 秀吉より安吉作の脇差 42 39 49 47 秀吉死去。
1599 慶長4 54 55 在川和尚と禅問答“無”と“○”の旗印 43 40 50 48
1600 慶長5 55 56 関ヶ原合戦、土佐24万石に。 44 41 “笠の緒の密書”の功 51 49 八幡城の合戦。稲葉と激戦後和睦。八幡城復帰す。11月慶胤死去。 関ヶ原の合戦。家康勝利。
1601 慶長6 56 57 深尾和泉を佐川、山内可氏(姉通姫の子)を宿毛、五藤為重を土居に 45 42 52 中山城へ。八幡城修理。
1602 慶長7 57 58 46 43 53
1603 慶長8 58 59 土佐守に。大通院建立(改装か創建か) 47 44 54 京都妙心寺大通院へ何度も通い、半山和尚に接し人徳に打たれる。 江戸幕府開く。
1604 慶長9 59 60 書を高野山光明院へ贈る 48 45 55
1605 慶長10 60 61 死去(高知)
姉・通姫死去。(安東北方殿、宿毛にて74歳。筆頭家老山内可氏母)
49 46 56 慈恩寺開山。南化国師の法子半山和尚を請う。
1606 慶長11 50 47 一周忌またず京都へ。河内発、京都伏見へ。後、桑原街に6月13日移る。 57
1607 慶長12 51 48 58
1608 慶長13 52 49 59
1609 慶長14 53 50 60
1610 慶長15 54 51 61
1611 慶長16 55 52 62
1612 慶長17 56 53 63
1613 慶長18 57 54 64
1614 慶長19 58 55 65 冬の陣参戦
嫡子慶勝死去(28歳)
外孫の慶利を嗣子に。
大坂冬の陣
1615 元和1 59 56 66 夏の陣参戦・
孫の金森宗和不参加
大坂夏の陣
1616 元和2 60 57 67 家康死去
1617 元和3 61 58 死去(京都)。12月4日。見性院様御病気御大切、料紙箱・古今和歌集・徒然草・けったんの不□こ、御形見として忠義公へこれを進む 68 飛騨高山城主・金森可重(婿)に使者。江戸への人質。
1618 元和4 69 慶胤11子三十郎(安右衛門亮胤)江戸で御由緒を以て御側に召し仕らる。
1619 元和5 70 三十郎、高野山正覚院名簿に家臣として連署
1620 元和6 71 安右衛門亮胤知行200石御扈従相勤
1621 元和7 72 将軍秀忠上洛供奉
1622 元和8 73
1623 元和9 74 将軍家光・秀忠上洛供奉
1624 寛永1 75
1625 寛永2 76
1626 寛永3 77 慶利と将軍上洛供奉。古今集献上。
1627 寛永4 78
1628 寛永5 79
1629 寛永6 80
1630 寛永7 81
1631 寛永8 82
1632 寛永9 83 慶隆死去。(83歳)
深心院殿乗性旦斎。
秀忠死去
省略 省略
1640 寛永17 若宮氏女死去(五藤為重妻)10月13日「おまつさま」(79歳)
1700 元禄3 将軍綱吉正室に冷泉大納言為秀卿の古今集、綱吉生母・桂昌院に東常縁直筆の古今和歌集を捧ぐ 「徳川実記」