親戚軍団
また見つかった!一豊・慶隆の親戚軍団
富山県で
一豊と千代の兄が生死を共に。
長浜城歴史博物館蔵
「羽柴秀吉陣立朱印状」
(2003.10.4 一豊千代サミットの日
長浜城歴史博物館のご好意で撮影
)
長浜城歴史博物館ホームページへ
長浜市での一豊公&千代サミットの当日
、
山内一豊と郡上遠藤の姻戚関係を裏付ける資料に出会う事が出来ました。
この史料は
千代の兄・遠藤慶隆の一族が千代の夫・山内一豊と生死を共にしたこと
を知り得た貴重なものです。
(川上)
※ 天正13年(1585)7月17日の日付
実物写真
越中江先勢遣覚
※ 富山の佐々成政を攻める時の陣立て
※ 一豊は41歳。娘の与祢は6歳。遠藤慶隆36歳。
千代26歳〜29歳
。
前年の小牧長久手戦陣立でも親戚軍団
一番
前田又左衛門尉殿
(前田利家)
壱万
二番
羽柴五郎左衛門尉殿
(丹羽長重、4月に父・長秀が死去)
弐万
この陣立朱印状は
丹羽長重が築いた棚倉城(福島)
の棚倉藩・阿部家より伝わる
三番
木村隼人殿 三千
堀尾毛介殿
(茂助)
千
⇔後に一豊の甥の岳父
※(
堀尾吉晴
)
山内伊右衛門尉殿 七百
⇔
千代の夫
山内一豊
(41)
のこと。
高浜城主
佐藤六左衛門尉殿 弐百
⇔
千代の次兄
遠藤慶胤
岳父の子
。
母,大隈守娘
。
遠藤大隅守殿 弐百
⇔
千代の従兄
遠藤胤基
。郡上遠藤の本家。
遠藤左馬助殿 弐百
⇔
千代の長兄
遠藤慶隆
(36)のこと。八幡城主
(山内以下は全て親戚グループ。中世の戦では裏切りを出さないよう政略結婚などで固めた
親戚が一団を形成するのが常である
というのが歴史研究家の見方です。)
拡大します
郡上の東家遠藤家系図「経聞坊文書」
へ
(上の右写真は「長浜城歴史博物館図録」より。左は拡大:
(
写真を撮らせていただき深く感謝申し上げます。
)
四番
賀藤作内殿 千
浅田三左衛門 三千
稲葉彦六殿 千五百
森仙蔵殿 千五百
五番
民部少輔殿 弐千五百
蒲生飛騨守殿 三千五百
船手衆
因幡衆 弐千
長岡越中守殿 弐千
以上
信雄 馬廻り 五千
都合五万七千三百
七月十七日
(※)
秀吉
朱印
※
初代
佐藤六左衛門の娘と結婚した
遠藤慶胤は、その末子・遠藤三十郎が見性院死後翌年、御由緒をもって土佐藩に召抱えられます。
そのご子孫が南国市に住んでみえます。
※天正13年(1585)7月17日のこと。翌8月に佐々成政は敗れます。この年、郡上では金森と共に慶隆の弟の遠藤慶直たちが佐々成政と同盟する飛騨の三木自綱(みつき よりつな)を攻めます。このとき慶直は戦死しました。
※この年(1585)11月29日、
一豊夫妻は長浜で最愛の与祢姫(6歳)を地震で失います
。この戦いの時点(7月)では、知恵の付いた「与祢姫」を話題にした伊右衛門(山内一豊)や左馬助(遠藤慶隆)らの談笑が陣中のかがり火の中から聞こえてきそうです。
◎この3年後の天正16年、両遠藤は減封され東白川(一部、滋賀の日野)へ左遷されます。
◎堀尾茂助の養女を一豊の甥(一豊の姉の「通北方殿の長子)に娶らせており堀尾も親族となります。この甥こそ、のちの山内家の筆頭家老となる山内可氏です。幼少時に父を含む安東一族は北方合戦(天正10年6月)で全滅させられましたが、母と子は竹中半兵衛方へ密かに引き取られ養育されます。竹中半兵衛の妻が安東家の娘だからです。
◎
八幡城主で千代の兄・遠藤左馬助(慶隆)も竹中半兵衛妻の妹を安東家より
娶っています。
大河ドラマは千代は43年前に作られた原作のままです。川を挟んで半兵衛と千代が馬に乗って対岸の一豊と秀吉を見つめるシーンがありましたね。半兵衛と千代が一緒にいるのも郡上説なら余分な説明も要りません。千代は慶隆の妹だからです。
※ 2005年5月30日、郡上から‘遠藤慶隆ゆかりの地、訪問の旅’一行(講師:高橋教雄先生)が、長浜城歴史博物館を訪問し、展示中の「羽柴秀吉陣立朱印状」を拝観しました。
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