千代の兄嫁の兄弟
陣立表(秋田文書・「大和村史」写しと解説)
まだあった、山内・遠藤親戚陣備表(小牧・長久手合戦)へ
千代の従兄
千代の兄
山内一豊の親戚軍団(解読)へ
長浜城歴史博物館蔵「羽柴秀吉陣立朱印状」
山内一豊の妻
丹羽長重公に感謝
「羽柴秀吉陣立朱印状」を大切に残してくれた御恩!
 この朱印状は現在は滋賀県の長浜城歴史博物館に収蔵されていますが、もとは福島県の棚倉町(人口1万6377人=2000年)という町の阿部氏に伝わっていたそうです(楠戸義昭著「山内一豊の妻」新人物往来社刊)。阿部氏は棚倉藩の最後の藩主です。なぜ、そんなところからこの「陣立朱印状」が出てきたのか一瞬不思議に思いました。早速、「広辞苑」で棚倉藩≠調べてみてすぐにその訳が分りました。丹羽長重が1622年にここ棚倉へ入って来ていたのです。そして棚倉城を初めて作り城下を整備したというのです。
 この陣立て朱印状は、天正13年(1585)の7月17日のものですが、長重の父・丹羽長秀はこの年の春になくなっていました。家督は長重が継いだのです。若き丹羽長重にとっては父・長秀の死の悲しみを超えてこの戦に臨んでいたでしょう。そんな、思い出の秀吉からの「陣立朱印状」を大切に取っておき、37年後に福島県の棚倉町まで持って来たのです。棚倉藩はその後、内藤氏、太田氏、松平氏、小笠原氏、井上氏、松平氏、と続き最後に阿部氏が来ました。
 そして400年後の今、山内一豊の妻は近江の人か、美濃の遠藤氏の娘か、の渦中で、決定的な証拠史料となって現われてきました。

 遠藤胤基の父
・胤縁と
遠藤慶隆の父
・盛数は兄弟
山内一豊夫人顕彰会
千代の夫
遠藤胤基
遠藤慶隆
佐藤六左衛門
山内一豊
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丹羽長重
↑前田又左衛門殿
(信長の重臣だった丹羽長秀の子)
↑羽柴五郎左衛門殿
郡上の系図へ
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↑堀尾毛介殿
越中富山の佐
々成政攻め陣立て


千代の兄嫁の兄とは次兄・遠藤慶胤