「土佐史談」165号 (昭和59年5月14日)=1984年 土佐史談会発行     山内一豊の弟・康豊の箇所へ

一豊夫人見性院の出自について
 ──郡上八幡遠藤氏系図を主とし──  丸 山 和 雄

見性院に関する資料には、近江の若宮説の他、美濃の安東(斉藤)、不破説等があり、また従来知られていなかった、長良川上流の郡上八幡城主、遠藤但馬守慶隆の妹とする系図がある。この系図は「寛政重修諸家譜」に収められた権威あるものでありながら、従来郡上方面以外では、あまり知られていなかったのも不思議だが、その理由については後に述べたい。

 世にいう「先祖ばなし」が盛んになり、乱世に離散した同族縁者が互に消息を求め合ったのは、江戸中期頃からであり、近江の「牛尾田文書」などもその一つである。しかし創始期に当る、一豊、弟の康豊、見性院の3人は、いづれも自分の過去について語った形跡はなく、一豊公17才から29才までの記録を欠き、夫人や康豊の過去も謎につつまれた一因となっている。これは、今日明日を生きのびるために、悲惨な戦を繰り返さざるを得なかった戦国期の人々に共通した気持ちであったようだ。(注:一豊17歳=1561年から29歳=1573年まで。川上)

遠藤家の女子についても同様に不明な点がある。その系図に入る前に、山内、遠藤両家や、宿毛の安東氏、佐川の深尾氏等とも関係のある美濃安東(安東・伊賀)家の系図を抄出し、次いで遠藤、不破・若宮の資料を比較してみたい。

1 安東系図



一豊の父・盛豊の女子三人は、いずれも美濃に嫁しているが、安東家に嫁したのは一豊の姉・通姫である。

 斉藤道三の国盗りで、混乱に明け暮れた美濃には、江州の浅井を引入れて織田を討とうとする派があり、安東守就(伊賀伊賀守)は美濃三人衆といはれる有力者であったが、信長に組して、その美濃平定を助けた。しかし、やがて信長の疑惑を受けて蟄居、本能寺の変で混乱した天正10年、同族の稲葉一鉄の攻撃を受けて、一族殆んど全滅している。通姫が嫁したのは、守就の弟郷氏で両者共に討死した。(注:北方合戦。川上)

 安東系図は種々あり、山内一豊室と記入されている「美濃諸家譜」は、必ずしも正確とは思へないが、一時身を寄せていた女子を示すものかもしれない。

また、他の系図に、

守就弟 伊織 室山内伝兵衛娘

         山内対馬守一豊妹

と記したものもあるが、伊織は別人、一豊妹は一豊姉の誤りである。

なお、「山内伝兵衛」は、美濃の資料に多く見え、盛重と記したものもあるが、内容的に信頼性の高い系図に

「藤原盛豊」山内伝兵衛後但馬守

     天文之頃尾州黒田城主 弘治年中討死

とあり、一豊の父が美濃の根拠地から尾張に移った、とする説が有力である。

「北方合戦物語」にも「安東家の守就の父祖定就の室梶原氏は、盛豊夫人の姉、従って盛豊は黒田城が危うくなった時、通姫を守就の養女とし、いずれどこかへ縁付かせてくれと頼んで戦死した。よって守就は、弟郷氏の妻とす。通姫年14才」

「秦山日抄」に、美濃立政寺からの書状があり、山内の祖実通が地頭職として同寺に与えた田地の寄進状2通が見えるから、山内家は根拠地が丹波のみならず美濃にもあった大族であった。

 一豊の妹米姫は、始め長井源兵衛利直に嫁す。利直は前記系図中の長井隼人の甥である。長井家は安東とも同族で、国主土岐氏の重臣。後の斉藤道三が一時長井新九郎を名乗っていたのは、主人の長井長弘夫妻を密かに殺害して姓を盗んだもの。やがてその子の関城主長井隼人は道三の嫡子義龍に向かって、君は道三の子に非ず、前太守土岐氏の種であると告げて、道三を滅ぼすに至る。次の妹は野中家に嫁した。

 康豊の室は「水野氏実は佐藤氏(長井、安東同族)女」(家譜)また「室長井弥兵衛利直、早世、後室佐藤氏」(御系図)等とあり長井利直は長井隼人の甥としている。

 「秘笈録」に「始濃州長井弥兵衛利直の養と成り、其息女と言い合せて、本能寺の変、信忠御生害の後、あいむこ溝口お竹に、加賀大聖寺にて養育せらる」また「始め長井次郎左衛門」と記してあるのも不思議だが「寛政重修諸家譜」を見ると、美濃出身で北陸に配された溝口氏は「溝口秀勝 竹 伯耆守 室長井源七郎女」とあり、また「秦山日抄、深尾系図」に「重良」「寓加州大聖寺、城主溝口伯耆守秀勝と、長井弥兵衛利直一族なり。利直と重良は女縁あり、故に往て寓す。」また別書にも「康豊、重良共に秀勝方に寓す、一豊長浜拝領の時、康豊長浜に呼寄せられ、重良のことを告ぐ、よって重良も長浜に呼寄せらる」等の記があり、長井家と何か関係があったようである。

そうすると、その中心人物は前記の関城主、長井隼人(遠藤慶隆義父)かもしれない。

また「秦山日抄」に、先の「先祖ばなし」の一例だが、元禄年間に豊後の稲葉家から、深尾家に「貴家の系図を見ると、長井と関係があるようだが詳細を知りたい」という意味の書状があり、稲葉系図や長井隼人のことにもふれている。

 以下、美濃諸家と山内家はいろいろな繋がりのあったことが窺はれる。


2 東家遠藤氏系図(抄出)       

同家の系図書は極めて多いが、殆んど混乱はない。

「寛政重修諸家譜・郡上古日記・白鳥町経聞坊文書・東家遠藤家記・東京の遠藤家蔵の七親等以前親族記録・其の他郡上の慈恩寺蔵の記録や、旧家所蔵の記録等がある。

 同家は、「草の武蔵の八平氏」と称された桓武平氏の一族で、高望王の4男、平良文を祖とし、一族平将門の乱に同調せずして難をまぬがれ、頼朝の挙兵を援けた千葉介常胤は下総の東庄を領有、その孫・胤行が郡上の山田庄を与えられて別家をたてたものである。

同家は、和歌の家柄として知られ、胤行の父は藤原定家の門人、胤行も藤原為家から歌道の奥義を学び、その娘を妻に迎えた。



父子ともに源実朝の近臣でもあり、昼夜御前に在って共に歌道に励んだ。胤行が郡上へ下る時、実朝が送った歌に


     浜千鳥 八十島かけて通ふとも

      往来し浦をいかがわすれむ    (金槐和歌集)

とあり、また胤行が郡上へ下った時の歌

   住みなれし 都をなにと別れけむ

      うきはいづくも我身なりけり   (新後撰和歌集)

其の他、22首が勅撰和歌集に入っている。

「遠藤家記」を見ると、まるで歌書の趣があり、戦国時代に入っても折にふれて詠歌が絶えない。

以後、同家の家譜は、和歌と五山文学の業績で満たされ、東常縁は長い戦乱の間にまさに絶えようとしていた歌道の奥義を、宗祇に伝授し、これを後世に伝えた国学の恩人であった。

遠藤慶隆の父・盛数は郡上統一に成功し、斉藤氏に仕え、信長が桶狭間戦の余勢をかって美濃に侵入するのと戦っていた。永禄5年信長大軍を率いて侵入、竹中半兵衛の計略によって敗退したが、この年盛数は没し、慶隆わづか13才で家を継いだ。一豊より5才年少であった。国中なお不穏のため、後見人を必要とし、老臣は慶隆の母を丁度妻を亡くしていた、斉藤龍興の叔父、関城主長井隼人に再嫁させようとした。慶隆の母は大変立腹であったと伝えられるが、一同に説得されて再嫁した。この時、慶隆兄弟3人は郡上に残り、女子二人は恐らく4〜5才前後であったので、母と共に、岐阜の館に伴われたはずだが、この辺から消息が不明になっている。

永禄7年、近江国境の岩手に居城する竹中半兵衛は、暗愚な斉藤龍興に目にものを見せんと、計略を以て独力で稲葉山を乗っ取り、城外では安東一族が呼応した。丁度、岐阜の母のもとに遊びにきていた慶隆兄弟が難を避ける間に、(注:従兄の遠藤胤俊が)郡上を横領しようとしたが、長井隼人の援軍を得て、無事城を回復した。(注:川上)

永禄9年、慶隆、安東伊賀守の女と婚す。長井隼人の肝いりによる。

永禄10年、美濃4人衆、安東伊賀守、稲葉一鉄、不破河内守、氏家常陸が信長に通じ、織田軍が数万で稲葉山を包囲したので龍興敵しがたく関城に退き、更に、叔父長井隼人、日根野弥次右衛門等、わずか30人で、江州浅井長政方へ落去した。

この時、慶隆の母、妹二人はどうしたのであろうか。考えられることは、安東または浅井方に世話になる事である。浅井久政の妹は龍興に嫁していた。また、浅井の勢力は一時国境の不破郡(関ヶ原方面)から、東隣の安八郡に及んでおり、国境の諸士は両者両属の時期があった。信長が妹お市の方を、浅井長政に縁付けようとして仲介人を求めた時、不破郡をも領とした不破河内守が買って出て、お市の方を浅井に送り届けている。また長井氏や日根野氏は始終信長に反抗していたから、浅井と不離の関係があったと思われる。なお、不破河内守は以後信長と浅井家とのすべての交渉を担当している。

元亀元年、慶隆20才、安東・稲葉・不破と共に姉川合戦に信長に属して戦う。この頃、一豊25歳だが、未だ記録空白の時代。

元亀3年、慶隆22才。武田信玄上洛のため出陣、本隊は三方原で家康・信長の軍を破り別隊は東濃に迫る。慶隆は信玄、信長の両者から向背を迫られ苦境に立った。

同3年、長井隼人、摂州白井河原で討死。(元亀元年とも云う)

翌、天正元年、慶隆23才。一豊、近江唐国を領す。

同元年、信長は向背不明の慶隆を郡上に攻囲したが和睦。

郡上の伝承に、「信長八幡城を三千騎にて包囲せしが遠藤氏も織田氏も桓武天皇を祖とする平氏の少ない子孫であること判明。戦はずして和平し、信長に服す。信長、家臣一豊に慶隆の妹を嫁がせることで和す」というのはこの時のことか。時に一豊29才、慶隆24才、慶隆妹は14才前後か。一豊の記録は同年の天正元年、朝倉勢との戦で、三段崎勘右衛門を討取った記事があるが、なお天正18年までは記録が極めて少ない。

右は伝承ながら、桓武平氏云々は事実。また、東家遠藤家の歌学を尊重しての和平であったかも知れない。

しかし、当時の慣行から見れば、和平の人質として差出した妹を一豊に配したとも考えられる。

慶隆の妹は、義父の長井隼人の戦死前は、転々と美濃近江の所縁の家に預けられ、隼人の死後、母と共に郡上に帰ったのであろうか。母は同地の寺院に隠棲して歿したと伝えられている。

 右の他の家記類には「慶隆妹、山内対馬守一豊に嫁す」とのみ記され年代は不明であるが、一豊と慶隆に面識のあったことを示す「延宝7年孕石元政聞書」がある。

「一豊公大閤へ出始められて、御知行四百石、播磨にて二千石、尾張楽田にて四千石、外に与力三人、五千貫斉藤六左衛門、四千貫遠藤近江、三千貫遠藤但馬、此但馬は遠藤安右衛門伯父、北方殿婿前深尾主水と相婿」

右の、斉藤は佐藤の誤り、遠藤近江は遠藤大隅の誤り、遠藤但馬は慶隆のことでいずれも一族、安右衛門伯父とあるのも、後述するように正しい。次の北方殿婿は安東郷氏だから、安東と遠藤を取り違えており、他に遠堂と誤記した例もある。楽田四千石も誤り。前深尾主水は深尾重良を指し、安東氏の女の聟(娶一豊通姫の女)で正しいが、伝聞の半分は間違うといふ例でもある。

 遠藤安右衛門については、土佐藩の「御侍中先祖牒」の中に記されている。

「桓武天皇末流 千葉常胤六男東胤頼十一代孫、六郎左衛門盛数男 美濃国郡上之城主 遠藤但馬守慶隆弟 助次郎慶胤男

六郎左衛門盛数女 慶隆慶胤妹は

山内対馬守一豊公御室と家系に有之

先祖 遠藤安右衛門亮胤 本国美濃 

                  遠藤慶胤倅

忠義公御代 元和四年於江戸 御由緒を以御側被召仕 御宛儀不詳

同五年 知行二百石被下置 御扈従相勤其の後御馬廻被仰付之 明暦四年正月没」

以上が前掲の遠藤系図と一致すること、ただただ驚くほかはない。その子孫が現在南国市里改田に居られる遠藤春海氏である。また見性院の歿した元和三年十二月四日から一月足らずの翌元和四年正月吉日「康豊等一門家臣三百人、連署の名簿を高野山正覚院に納む」とあり、その中に「遠藤三十郎元判」と見え、疑いもなく安右衛門の前名である。(立判、元判、等は判の種類か)

したがって、この殆んど時期を同じくした見性院の死と安右衛門の登用は、見性院の生前からの希望と遺志が、実現したものと考えざるを得ない。

また、この時点で右系譜が藩に記録されたことは、遠藤系図の夫人に関する項が、後世に記されたものでなく、夫人の生存中、一豊が対馬守を称した天正十五年から慶長八年の間に、すでに記録されていなければならない。但し、同家の数多い系図中、ただ一つやや後日に付記したらしい「一豊夫人、見勝院」としたものがある。

 更に慶隆一族が一豊の与力として面識のあった事実を示す、小牧(長久手)の戦いの陣立がある。

「大日本史料、秋田文書、大閤様御人数立」で十五段ぐらいに及ぶものだが、先陣に慶隆一族と一豊の名が見える。

   尾口楽田一日替

  右先手勤也       加藤作内  千五百

     稲葉与州殿(一鉄)  山崎源太左衛門

     同勘右衛門殿    池田孫次郎

       二千五百     多賀新左衛門  合三千

  
    左           日根野備中守  千五百

    長谷川藤五郎(秀一)   同 常陸守

       二千五百     佐藤六左衛門   四百

     合五千       遠藤大隅守胤基  六百

               遠藤左馬助慶隆  

               山内伊右衛門一豊 七百

小牧戦の秀吉軍は十万余と称される大軍で、大坂を発ち、更に大垣で勢揃いし、犬山に着いてから改めて配置替えをしているから、どの時点のものかは分らない。(「孕石元政聞書」は日根野を脱しているがこれも一族で勇名で聞こえた人物。(「孕石元政聞書」参照)
 実戦では、慶隆等は森武蔵、池田勝入等の後方迂回軍に加えられ、家康の背後を突こうとして敗軍しているが、一豊はこのとき柏井の森川屋敷を守っていた。従って終始行動を共にした訳ではないが、本人同士の希望か、信長または秀吉の命令で、与力の関係にあったことは疑いなく、これは一豊の人柄力量が高く評価されていたことを示している。   (注:その後、新たに発見された「秀吉陣立て」(長浜歴史博物館蔵)へ)


 其の他郡上には、夫人と一豊の結婚や、名馬を一豊に贈った五種類の資料があり、これを郡史にまとめんとしたのは戸塚鐐助氏である。旧藩時代の記録係の家柄で、維新の際、その全部をゆずられ、幼児から読誦した郷土史の権威であった。東京に移られて郡史に着手。近江を訪れて見性院若宮説も充分調査されていた。ところが関与していた郡役所が全体の監修を岐阜の史学者某氏に任せた。某氏は近江の調査もせず、見性院は山内家では若宮喜助娘としているとして争い、遠藤説を削除してしまった。学者として冒険をしてまで異説を立てるのをためらったのであろう。当時は郷土史家などは軽く見られていることが分る。これを遺憾とした戸塚氏は、独力で郡史を再編しようとしたが、不幸関東大震災ですべて原稿や資料を消失して事はならず、失望した同氏はまもなく歿された。

以後美濃では、学者の権威をはばかってか、遠藤説はタブーの観があり、昭和の郡上八幡町史も、見性院には一行もふれておらず、かえって尾張の郷土史に見えている。


 

若宮説 不破説について

近江坂田郡飯村に、若宮氏の祖、京極氏の家臣であった若宮外記一族を顕彰する碑が、昭和47年に建てられ、吉田、牛尾田、伊部等の十八家が、その遺領を管理している。(浅井時代は郷士であったらしい)

 若宮文書の「若宮左馬助殿お松御料人」が見性院だとされるが「牛尾田文書」には「私祖父は九郎右衛門と申し、たしかに其元より左馬助様御息女様、五藤内蔵助殿へ御縁組」また他に「若宮左馬之助様御息女、お松様と申に御供仕り、吉田忠左衛門、宮崎喜兵衛、伊部清右衛門、牛尾田九左衛門四人御供仕り罷下り、今に罷有申候」とあり、お松様とは、五藤家に嫁した人で、以後家系が絶えた、と伝承されるから、見性院とは考えられない。

 

「不破系図」は大通院から大坂の知人に聞合わせたもので「秘笈録」(森勘左衛門芳材著)から抄出すると



 重純──重則──不破内匠頭重正

        
     女子  嫁山内対馬守藤原朝臣一豊

              其母高宮氏 浅井長政の族

     女子  嫁山田孫右衛門宗純
         生山田喜三郎去暦他

 
 とあり、其の母高宮氏とは、浅井の重臣、高宮三河を指すようである。内匠頭重正は何か腰が落ち付かず、浮田家と山内家の間を再三出たり入ったりしながら重用されているが、その家譜に重則と若宮喜助は、相婿とある。そして最後に見える去暦の二男、喜助清篤の家譜は「慶長七年、見性院様御執成しにより召出さる」とあるから、過去に何か関係があったらしいと想像されるだけである。

「秘笈録」には次いで「康豊公御内室、若宮善助娘」とあり、高宮、若宮諸説混乱の様子が窺はれる。

また「諸家差出」山田家のものに

「山田氏由来、昔の事故確かと存ぜず候。一豊様に娘進申候由、不破氏の娘を親類の内故養子に仕り進候趣にも承候。虚説に候哉、鹿と存ぜず候」とある。

 また、「皆山集」に「若宮喜助の女、母は石川小四郎女、喜助戦死後、母方の叔父不破重純の許に在りしを牧村武蔵守御仲媒にて妙因様(一豊母)へ参らる。後公へ配偶の御契約にて唐国拝領の時婚礼有之」とあり、結局不破氏、山田氏の女も、若宮の女に帰している。

しかし前記後段の「妙因様に仕えている中に見込まれて一豊の室となった」といふ説は、幕末の吉村春峰に「何のよる所もなく、いぶかし」とされながら、結局「御四代記」はじめもっとも記載が多いために若宮説が通説となったようだ。

 若宮氏と関係があったとすれば、前記の「お松様」でなく、別の今一人の女性でなければならないが、この点は全くの空白である。但し若宮家が有力な豪族であったことは間違いなく、長井隼人と不破一族、若宮家との関係を今後の課題としたい。

 

 

 さて、遠藤慶隆は、本能寺の変後、岐阜の織田信孝に仕え、秀吉が信孝と戦うや、立花山に出陣し、秀吉の大軍に包囲され、食糧の尽きるまで死闘したが、信孝の降伏を告げられて開城し、後、天正十六年領地を没収、白川に移され知行も半減された。これが後の関ヶ原戦に家康に味方した理由で、美濃に不安を持っていた家康は大いに悦び、郡上回復の書状を与えている。慶隆は十三才で父を失ってから領地を守るための戦にはじまり、殆んどの国内戦に明け暮れ、朝鮮役にも加わり、戦の苦労をなめつくした観がある。

 一豊も同様であろうが、知縁の庇護のもとに、世の成り行きをよく見ながら成長し、必ずしも槍先の功名が本領ではなかったようだ。「一柳家記」を見ると、殺気立って論争する諸将も、一豊に「それはいらざること、こうこうなされ」などと云はれると、何となく押さへ込まれてしまう風があった。

 また、山内家には見性院の遺品と思われる「東常縁筆古今集」はじめ数種の古今集があった。当時は皇室から拝領する貴重品であり、郡上の資料には「遠藤慶隆、東常縁筆古今集を乞いにより将軍秀忠に献ず」との記録がある。

 

後世、出世美談の主人公にされようとは、思ってもいなかったであろうが、やはり夫妻共に、それだけの長者の風や、教養があったからであろう。室町殿と呼ばれて京都に住んだ、金森宗和の母(※遠藤慶隆と安東伊賀守女との娘:川上注)、斉藤氏の女、春日局も同族だが、見性院との関係は全く分らない。

 

以上、不十分ながら御叱正に供し、なを絶えず資料の交流を郡上の高橋吉一氏、川上与三吉氏、静岡の西村登氏等からいただいたことを付記して一応稿を終りたい。

 

東常縁が宗祇の京に帰るを送って

  もみぢばの流るる竜田 白雲の

    花のみよし野おもひわするな

宗祇、学成り、都に上る日、宗祇水のほとりにて

  三年へし 心を尽す思い川

    春たつ沢に わきいずるかな


  丸山和雄(まるやま かずお) 高知県立女子大学名誉教授(当時)  高知市で亡くなる。

「雑感」:私の父・川上与三吉が死んだ翌年の夏、高知で丸山和雄氏に二人きりでお会いした。電話でお話して抱いていた感じは、やや早口で軽やかに聞こえてくる声からして、角刈りの細面のスポーツ選手のイメージを持っていた。ところが、実際の丸山和雄先生は、80代を半ば過ぎてお顔も大柄な方だった。痩せても見えなかった。近くの食堂で昼食をいただいた。麦わら帽子とお顔の小さな疣が印象的だった。
数年後に亡くなられたときは、クラシックの音楽が流れる静かな葬儀だったと娘さんから聞いた。音楽の先生だったことを後から知った。尾戸焼(土佐山内藩藩窯)など陶芸への御造詣も深く著書もあり、五藤家の研究にも尽くされた。先生のご研究に驚きと敬意を表したい。  (川上朝史)

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