山内一豊夫人顕彰会のホームページへ

 

 

「郡上八幡ふるさと探訪」講座

 

 

山内一豊夫人

(八幡城主・遠藤盛数の娘,慶隆の妹)

見性院の謎を求めて

 

山内一豊夫人顕彰会:発行

八幡町教育委員会:発行協力



「山内一豊夫人・見性院の謎を求めて」

         目   次                    頁数【参照資料】

はじめに(クリックして下さい)                1  

郡上説の起源                         2

郡上の東家遠藤家系図長滝寺経聞坊慈恩寺など)      3【資料2・3・4】

山内家の起源(土佐山内家宝物資料館へ)            4

見性院の出自(初代八幡城主遠藤盛数女)            6【資料1】

見性院の母は歌道の名門東家の殿様の娘            7【〃】

謎を追うカギを持つ人の登場(次兄・遠藤慶胤)         8【〃】

遠藤春海さん(慶胤の御子孫・高知にご健在)           【資料6】

発見者・丸山和雄高知女子大名誉教授              9【〃】

高知県立図書館蔵「御侍中先祖系図帖」            10【〃】

遠藤安右衛門亮胤=三十郎(慶胤の子)            11【資料1・3・7】

遠藤三作の差出系図(丸山先生が驚嘆            12【資料8・1】

一豊夫人「おまつさま」のこと                16【資料9】

郡上と高知で研究と交流進む(大和村史・通史編に山内一豊の妻)18【〃】

山内家家老・五藤家の系図と夫婦墓              19【〃】

牛尾田文書(おまつ様は五藤家へお嫁入り)           21【資料10】

浅井長政の手紙(御まつ御料人宛)              22【資料11】

戦乱の時代                           23【資料12】

永井隼人(見性院の母と再婚・信長は敵)           24【〃】

二人の結婚と愛娘の死長浜で天正の大地震         25【〃】

慶隆と見性院(妙心寺と慈恩寺を結ぶ糸)           26【〃】

母の友順尼から見性院を探る                 28【資料13】

安東家のこと(遠藤と山内を結ぶ家)            29【〃】

永井隼人、信長から逃げる(見性院も母と共に)        31【〃】

美並村乗性寺母、友順尼の記録             33【〃】

母・友順尼の従者、埴生高照の家柄             33【〃】

見性院・身の上語らず流浪                   34【〃】

小牧長久手戦の陣立・一豊慶隆軍団              35【資料7】

新史料追加 新史料 ◎秀吉朱印の越中富山の佐々成政攻めの陣立書
                       (ここでも山内・遠藤の親戚同士は同じ陣立て内に)


梶原氏と山内家                        36

若宮外記仲間の人々・外記は五藤家               37【資料9】

見性院と東常縁直筆の古今和歌集                38【資料12】                                                                                 安東家の藤巴の紋のこと                   40

郡上八幡で「一豊&千代サミット」               41

おわりに・見性院その一生                   43

【資料1〜13】

あとがき


 

 

「郡上八幡ふるさと探訪講座」

山内一豊夫人・見性院の謎を求めて

   ●はじめに

今日は先ほど、ご紹介がありましたように見性院様についてお話をさせていただくという予定になっておりますので、これから二時間ばかりの間、話を聞いていただきたいと思います。そこで、お話に入ります前にちょっと皆様方にお聞きいたすわけでございますが、見性院というのは法名でございますので普通のお名前は一般にはお千代さんと言われております。けれども皆さんがお聞きになっている言葉は「山内一豊の妻」ということのほうが多いと思うんですけれども、皆さんの中で,そう言うとお年が判るかも分かりませんのですけれども、小学校のときの教科書にですね山内一豊の妻という題で長らく載っておりましたんですが、そのことを自分は直接習わなくても自分のお兄さんとかお姉さんなどがですね使われた教科書で知っているとか、あるいは自分が実際それで習ったとかいうようなことをご存じの方は恐れ入りますが、手をちょっと挙げていただけませんでしょうか。(手がたくさん挙がる)はい、有難うございます。以外にたくさんの手が挙がりまして私も嬉しいような気がするわけなんですけれども。この山内一豊の妻、あの賢夫人として名高いですね、夫のために生涯を一生懸命に尽くされた、あの賢夫人のお千代さん。そのお千代さんがですね、何と、この郡上のお殿様(遠藤盛数)の娘であり、二代目のお殿様の慶隆さまにとりましては妹であるということが明らかに段々なって参りまして、私どもいろいろ勉強をさせていただいている訳でございます。そこで、これからお話を申し上げるときには、話がこんがらがるといけませんので、このお千代さんにつきましては法名の「見性院」というお名前で話させていただきますのでそのようにお願いいたします。「性」という字ですけれども、あれを「しょう」とお読みいただいて「けんしょういん」と申し上げます。

郡上説の起源

そこでこの見性院が郡上のお殿様にかかわりのある方ではないかと言われておりましたのは、これはずっと前から言われていたんですあまり表には立っておりませんけれども言われていたんですね。例えば一番最後のお殿様である青山様の祐筆をずっとお勤めになっておられました戸塚さんという方がいらっしゃいますが、そういう方達が伝承といたしまして明治になりましてからもその見性院についてはかなり研究をしておられたんですね。そうして大正に入りまして、「郡上郡史」という部の厚い本がございますが、この「郡上郡史」を編集のときにですね、その見性院に関する項目が一項目設けられる計画があったそうでございます。そして資料もかなり寄せられていたそうでございますが、それがですね、編集の途中で八幡町の北町の火災に遭いますとか、いろいろな障害がございましてその項目が削られてしまったんですね。それからトンとその見性院というものが話題に上がってこなかった。しかし、その下の方ではですね、そういうことが常に時々に語られ続けてはいたわけです。

郡上の系図(長滝寺経聞坊・慈恩寺など)          【資料2・3・4】

 そこで、どうして語られ続けられていたかというと、今日、皆さんにお渡しをいたしましたこの資料ですね。二つございますけど、系図が付いている方をちょっと見ていただきたいと思います。この一番上の細かいのは、これは長滝寺の経聞坊というところが持っておりますのを整理したものであります。その中のここに山内對馬守室(やまうちつしまのかみしつ)とございますね。これが見性院様のことなのでございます。それから次めくって下さい。次のは
慈恩寺様にあります系図の一つなのですが、たくさんの遠藤系図とか畑佐系図とか色々あるんですけれども、その中のこれは慈恩寺様にあります遠藤系図の一つなんですけれども、右から少し来ましたところにごちゃぐちゃと線で囲っておきましたが、そこに山内對馬守様室と書かれていますね。これが見性院様のことでございます。それをずっとたどっていただきますと、一番右方にありますのが慶隆、二代目と四代目の八幡の城主を勤めましたところの遠藤慶隆ですね。この方の妹で一番終いの妹が對馬守様室になっているのですね。普通の系図ですとね現在のものならばここにお名前が書かれるところなのですが昔は女としか書いてもらえないんですね。昔は女の人は数に入らなかったんでしょうか。男の方はしっかり名前が書かれているのですが女はみんな女、女としか書いてもらえない。そこで名前が載りませんのでまたそれが色々な謎になったり、疑わしいことになっていく訳なんですけれど。また一つめくっていただきますと、これはまた別のもの(慈恩寺)なんですけれども、確かに右の方から五つ目にですね、女、と書かれて山内對馬守一豊室、これに一豊というお名前が入って室というふうに書かれておりますね。やはりこれも慶隆の妹ということになっております。で一番最期のは、これは縦書きになっておりますけれども、やはり慈恩寺様にあるのですけれども、これには一番終りから3行目の下のほうに「女子にて山内對馬守」、その次には「もととよ」と書いてございますね。だけど字は「一」という字と「豊」という字なんですが。一豊室(もととよしつ)となっております。これにつきましてはですね、非常にお堅い方はもととよと書いてあるからにはこれは別の人だという理論を言われるんですけれども、これに付いてですね、現在のお殿様「山内豊秋氏」、一豊の御子孫の現在のお殿様が話されたことですが、(殿様の話し方を真似して)「私の家では“かつとよ”とよんでおります。」というようなお話の仕方をなさるんですが。そのお殿様の著書を見ますと「“一”という字は日本ではすべての数の元で普通は“かず”と読むのか慣わしである」と書いておられます。“一”って言う字は“かず”と読む。だから“かずとよ”と読むのが本当であろう。だけれどもやはり戦に出られる方でございますので縁起を担いで“かつとよ”というふうにお城の方では呼ばれていたようでございます。だから、仮名がですね“かつとよ”と打ってあるんですね。ご本家の本にもそう書いてあるので現在のお殿様も「殿様の言い真似で」「かつとよ」と言うようにおっしゃいます。(笑い)本当にゆっくりものをおっしゃいます方でね、お殿様らしいお殿様でございまして、「かつとよ」と、とても特徴のある言い方でおっしゃいます。だから、「かずとよ」でも「かつとよ」でもこの系図のように「もととよ」と仮名を打ったものもこれは皆同じお方で山内一豊様のことであると言うふうに申し上げて間違いのないことだということであります。

山内(やまうち)家の起源(土佐山内家宝物資料館へ)

 そこで名前につきましてはそのようなことなのですが、その山内家と言うのは、どんなお家なのかということについては皆さんのテキストのほうには詳しく書いてはおりませんけれども、簡単に申しますと山内家と言いますのは藤原鎌足、皆さんよくご承知の藤原鎌足からずーっと連綿と続いたお家柄なんですね。そうして、ずーっと後になりました時に、俊通(としみち)というお名前の方がありまして、この方が鎌倉の山内の庄という所にお住まいになったんですね。そこを領地とされたんですね。その時からこの方を山内と言うふうに申し上げる。その以前には首藤と言うふうに呼ばれておられた時代もあるのですが。鎌倉の山内庄に住まれましてから山内と言う土地の名前が苗字に付いたんですね。そうしてその一族は鎌倉を中心にしてズーっと各地に広がっていきます。その広がって行った一つが尾張に移ってこられまして、盛豊という方が岩倉の城主でありました織田信安(織田の一族ですね。)という方の家老を勤められた。これが中部地方に山内家が、一豊さんのご先祖が来られた道筋であります。ところが永禄2年(1559年)織田信長の岩倉攻めというのがございまして、その時から段々山内家も没落していくんですね。そうして一豊とお母さんとは主人の家が没落していきますので、あちこちを流浪をされるわけですね。その流浪が始まったとき一豊さんは15歳ぐらいだったそうでございます。そう言うふうにして一豊さんが出発されるわけですが、あちこちの戦争に出られてお手柄を次々と立てていかれますので遂には土佐一国をもらわれることになるんです。

● 見性院の出自(初代八幡城主遠藤盛数女)

 次に今度は、こちらの見性院様の方ですね。皆さんこちらの、もう一つのテキストの方をご覧頂きたいと思います。この一番最初のテキスト、題は「見性院の謎を追って」と言うふうに書いておきましたんですけれども、先ほど慈恩寺様などに直接書いた文字で残っている系図をご覧頂きましたが、このプリントの一番右っ側に載っていますのはあの系図を活字にまとめたものです。本当の字は見にくいですので、それで活字に致しました。一番上に郡上に残る系図といたしまして、まず遠藤氏の系図、遠藤氏といっても沢山あるわけですけれども、一番上に遠藤盛数、遠藤盛数が八幡城の第一代のお殿様であるということはもう前々勉強したことでありますが、この遠藤盛数さんに子供さんがあります。(プリントによる)。慶隆、これが長男でございますね。この方は第二代城主で盛数の後を継がれる方ですね。それからその次、慶胤っていう人なんですね。慶隆の慶という字で同じ字で、胤という字はずーっとご先祖の千葉常胤の胤をとっておりますね。その慶胤。その次に、慶直。そして女、女となりまして一番最後に山内對馬守様室とあり御母は右の方たちと同じですよと言うふうに書いてあります。お殿様ですとお嫁様が沢山ございますのでお子さんの名前の下の方にお母さんはどなたですかということが、ちゃんと書き入れてあるんですね。そこで、もしかすると沢山の系図を見ておりますと、女、女、と二人女がおりまして最初の女の方のところに山内一豊様室と書いてあるのがございます。ほとんどが一番最後の方が一豊様の奥様になっておりますけど、中にはお姉様の方が一豊様の奥様というふうに書いてある系図が出て参ります。けれども、ほとんどが一番終いになっています。慶隆兄弟の一番下の妹が結局、山内一豊様の奥様になった、ということになる訳ですね。

  ●見性院の母は歌道の名門・東家の殿様の娘   【資料1】

 そこでね、皆さん思い出して頂きたいのですが、盛数さんの奥さん、即ちこの慶隆様や慶胤様、ここの系図にあります方々のお母さんは、東家の一番最後十三代目の東常慶の娘さんであったということは前にお話をしましたので覚えていてくださるか、お忘れになったか知りませんけど、お忘れの節は思い出して頂きたいと思います。(笑い)。ここで東家の血筋が遠藤家に入ったんだということを申し上げておったわけですね。だからここから出てくる代々の殿様が非常に東家の歌道の、古今伝授などの歌道の伝統を継いでいかれるということになるわけで、これは東家の十三代常慶のお血筋がここで、がっちりと入っているからということですね。これはもう勉強したことであります。

謎を追うカギを持つ人=次兄・遠藤慶胤

 そこでこの遠藤のお二人の間に生まれました子供、これが長男が遠藤慶隆、二代とその次に豊臣秀吉に左遷をされて加茂郡の小原へ領地を半分にされて左遷をされる、そしてまた家康の応援で取り返しまして1600年、関が原の合戦後に郡上に返り咲きますね。その二代と四代の城主の慶隆、この慶隆の一番下の妹が見性院様であるということになる訳ですね。ところが今日はその見性院様の謎を追うために、一人の重要な方にご登場を願いたいと思うわけです。どの方であるかと申しますと、慶隆さんの弟さんに慶胤という方がございますね。二番目の方がね。この方は特に今日は、赤丸でも付けておいて頂きたいと思います。慶胤、この慶胤さんが非常に重要な鍵を持つ訳であります。

遠藤春海さん(遠藤慶胤の御子孫、高知県でご健在)【資料6】

 皆さんプリントをめくってください。そうするとそこに写真が載っておりますね。この方が実は、現在生きておいでになられる慶胤さんの御子孫なんです。もう、とても矍鑠(かくしゃく)としていらっしゃるんですけれども90歳ということでございます。この間、お会いしてきました。川上さんと行きましてお会いしてきましたが、腰は曲がっていらっしゃいますけども頭もしっかりしていらっしゃいますし、この方が遠藤慶胤さんの御子孫に当る方です。この方のお住まいになっている家がこの左の下の方の写真です。写真の横に書いておきましたが、向こうの瓦屋根の家はこの方のお父様がお医者様をしていらっしゃったところで、こちらの背の高く見える家が新しい家でここにお一人で住んでいらっしゃる。ご近所にお嬢さんがお嫁入りなさっていて時々面倒を見に来られるというようなことだそうでございます。この方は春海と書きまして「しゅんかい」さんと申し上げます(正式にははるみ)。雅やかなお名前ですね。この方のお父様は勝三郎という方で有名な細菌学者の北里柴三郎博士の書生を勤められた。そのうちに医学の勉強をなさってお医者さんの免許を取られてお医者さんをなさっていたそうでございます。そうしてそのお子さんである春海さんは高知の一中、高知で一番昔からある中学ですが、そこを出られまして、議員なども若いときはお勤めになったというようなことで、この写真の真ん中に春海という表札が写っていますので参考に見て下さい。また、春海さんのお家は一度火災になられたため、古文書など焼失してしまい、今は春海様が聞いて伝えられます事を丸山先生と連絡し合って下さいます。八幡の川上さん宅へも多くのお手紙が届いております、

発見者丸山和雄先生               【資料6】

 ところでこの春海様が慶胤の御子孫であるということを突き止めてくださいましたのは、その写真の上の段を見て下さい。何だか大勢の人が調べ物をしている図がございますが、これが先般、土佐の方へ私どもサミットに参りましたときに写したのですが、この後ろ向きになっていらっしゃる左側の方、この方がこの系図を発見して下さいました丸山先生なんです。まだ他のものも発見していて下さるわけですが、この方は高知の女子大の名誉教授でいらっしゃいまして、去年でしたか、勲四等瑞宝章をお受けになっておりますが、その方の研究、こういう研究をしたというリストを出さなくちゃなりませんのですが、そのリストの中に見性院に関わる研究というのも一項目入っていたのだそうです。

高知県立図書館蔵「御侍中先祖書系図帳」    【資料6】

 この(写真を見て)残念ながら後ろ向きでお顔が見えませんが、これ丸山先生なんです。80何才ですが、とてもお元気で私どもに、資料館とか図書館とかに残っております色々なものを見せて下さるために、案内をして下さったんです。この真ん中にデンと座っておりますこの書類ですね(写真)、うず高く綴じてあるもの、これは高知の城の家来に入るとき、代の替わるときの差出系図というものが綴じ込んである。これ一冊じゃないんですよ。土佐のお城の史料として、これがね七十冊近くあるんです。これくらいの背の高さのね。御家来の差出系図。御家来は皆、殿様に代替わりをする時は出さなきゃならない。それを差出系図といいますが、七十冊近くあるんです。その中の一冊に郡上に関係のある遠藤家の差出系図が綴じてあるんですね。で、そこの一番左の方は土佐山内家宝物資料館、その横が山内神社であります(写真)。その横に立派な宝物資料館が建てられていますが、この調べている場所は県立の図書館です。もう随分前に、丸山先生が史料は写真に撮られまして大手町の川上さんの亡くなられましたお父様の所へ色々送っていて下さるのです。だから、私たちは写真で拝見したことはあるんですけれど実物は拝見したことはございませんので、サミットの前に実物を拝見して丸山先生の説明を聞いているところです。向かう側からこちらへ向かって嬉しそうな顔をしているのが川上さんの息子さんの朝史さんですね。私はこちらから写しておりますので残念ながら写っていないのです。これはその時の写真です。さてそこで、第一枚目へ戻って頂きまして、この丸山先生以外にも資料館の中には、日本の紋章学、着物の紋ですね、紋章学の権威者の沼田頼輔博士とか、大勢の方が史料を整理するために入っておられるのです。もう沢山の史料ですから、ちょっとやそっとでは、もう100年くらいかかっても史料が整理しかねるほど凄い史料があるわけなんですね。その史料の中から丸山先生がですね偶然というか、研究を続けて求めておられたんですから発見できたのかも知れませんが、この遠藤家系図を見つけられたわけなんです。そうして丸山先生たちの出しておられる「土佐史談」に発表されました。ここに丸山先生の論文のところだけ抜いて持って来たんですけれども、丸山先生はこの史料を発見しました時「もうただただ美濃の郡上のように離れたところの系図と土佐の差出系図がピタッと一致したということは本当に驚きに耐えない」と書いておられます。もう疑う余地がないというか、本当に驚いたと書いてあります。

遠藤安右衛門亮胤・三十郎(慶胤の子)、御由緒を以ち仕官【資料1・3・7】

 そこで何がそんなに驚くのかと申しますと、この系図の遠藤慶隆の弟、慶胤さんのこのずーっと子供さんが並んでおられますが。数えてみて下さい。11人も、とてもお賑やかなことでありますが、母同前と書いてございますので全部お一人のお母様でございます。それでこのお母様は遠藤大隈守(木越遠藤の系統)という方の娘さんが入っておられるそうでございます。この方が慶胤さんの奥様になっておられます。そうしてこのお方がこれだけのお子さんをお産みになっていて、この一番最後が遠藤三十郎、又の名を安右衛門亮胤(やすえもん・すけたね)又もう一つの名に易右衛門ともいう。たくさんの名前があるのでややこしいですが、昔は何事かあると名前を変えますので小さい時と大きくなった時でも変えますし、たくさんのお名前があるんです。この遠藤三十郎という人は一体どういうことなのかと申しますと、一つ皆さん思い出していただきたいと思いますが、前にお話した時に、慶隆が秀吉に憎まれまして加茂郡の小原へ左遷されて領地をというか禄高を半分に減らされてしまって流された、憎まれてね。その時に小原とその隣の犬地という所をもらったのですが、その犬地へは場皿遠藤の系統の人、そして小原へはこの八幡の慶隆の系統が入ったんですね。ところが、それだけでは、とてもじゃないですが禄高が少なすぎて支えきれません。ので、1000石を“近江”の日野の荘という所に領地をくれたわけですね。そんな飛地を何故くれたのかと思いますけれども、まあそこが空いていたんでしょうね。その日野の荘、雪のよく降るところなんですが、日野の里とか日野の荘、そこん所へ、慶隆弟、二番目の慶胤さんが行かれたわけです。そうして、そこに生まれたのです。そこで遠藤家や関係のある大切な人を拾い出して、こういうふうに書き出してみました。(年表を皆さんに見せながら)ここは一豊、見性院のこと、慶隆のこと、慶胤の系統のこと、見性院の母のこと、その他のこと、というふうに、いつ、何をしたということを年代順にずっと書き出していくわけですね。そうすると、こういうようなものが出来るわけであります。これは見性院にまつわる大事な所だけを書いているわけなんですが。こういうふうにして書いて調べてみますとですね、この慶胤さんが近江へ行かれてから四から五年たってから生まれられたのが、この遠藤三十郎さんです。しかと、いつ、と言う事は申せませんが、大体4〜5年後に生まれておられるんですね。ですからこの三十郎さんは近江の生まれと言うことになる訳ですから、系図の上では近江の人というふうに言われる訳ですね。ここんところが見性院様が近江の国の人と間違う一つの原因ともなる訳なんですが。そこで、この三十郎さんは見性院が元和3年にお亡くなりになりますが、12月にお亡くなりになるんですが、その次の・・(ここで突然大きな地震が起こり、地響きがして講義が一時中断する。)・・長浜でも大地震が入りまして見性院様のお子さんがね、女の方が亡くなっておりますが。・・大変強い地震でしたですね。もしかすると揺れ返しが来るかもわかりませんが。よろしいですか、落ち着かれましたか。死ぬ時は一緒だと思って。(大笑い)。元和3年12月にお亡くなりになりまして、その次の年すぐに、この三十郎さんを土佐のお殿様が家来として御召し抱えになる。その御召し抱えになるときの書類はですね、これです。(写真)。これは実際にその時書いたものでなくて、その書いたものを山内資料館が本にまとめれれたものであります。本物は一つしかないので、まとめて書き写し本として発刊されたものからコピーしたのです。この中に「御侍中先祖系図帳」というのがありまして、遠藤安右衛門と書いてありますね。これが亮胤(すけたね)。これが先ほどの三十郎さんのことなのです。で、見性院がお亡くなりになると、すぐに江戸で御召抱えになったんです。その書類に「御由緒を以って」と書いてあります。この由緒を以ってということの具体的なことは判りませんが、これはどうもその見性院様の御血筋であるということで以って、召抱えられたのではないかというふうに丸山先生もおっしゃっております。「御由緒を以って」と、わざわざ書き加えられているのは重要です。そしてすぐ200石をもらい、次々と石高が上がっていっているのです。この書類も大切なものです。

遠藤三作の差出し系図(丸山先生が驚嘆)  【資料8・1】

 そうして次をめくって下さい。これをご覧下さい。これがですね先ほど調べておりました「御侍中先祖系図帳」の綴じてあるもので遠藤家の系図がズーッと書いてある所ですが、これは江戸時代後期に遠藤三作っていう方がこの高知の御殿様に差出された系図なのです。まだズーッとあるんですよ。一部ちょっと取っただけなんです。これに遠藤三作と書いてありまして、その最初のですね、ここのところをよく見ていただきますと、桓武天皇から始まってズーッと東家へ伝わって来て、その東家から遠藤家が出ておりますということが書かれているんですね。しっかりとこの系図に書かれている。これを見ますと、まさしく、この遠藤三作さん、すなわち慶隆弟・慶胤の子孫は、江戸後期の三作まで連綿として伝わっていることが、この系図でよく分かるわけですね。そのことでもう一つ大事なのは、この系図のここん所に、土佐藩士・遠藤三作の差出系図、として、世禄五石五斗、御留守居組、遠藤三作、この人の先祖は桓武天皇の末流・千葉常胤の六男・東六郎大夫胤頼11代の孫でございます。もう、東の子孫であるということを、しっかり書いています。そうしてその次へもっていって、六郎左衛門尉盛数、ね、盛数が出てきましたね。美濃の国、郡上の領主、遠藤但馬守慶隆弟、助次郎慶胤、慶胤さんですね!あの慶胤さんですよ。慶胤男、先祖遠藤安右衛門亮胤、これが遠藤三作‘私’の先祖でございます。本国は美濃でございますとしっかり書いてありますね。そうしてその次にこう書いてある。「六郎左衛門尉盛数女、慶隆・慶胤妹、山内対馬守一豊公御室と家系に之有り」これが殿様に出されたわけです。そうすると、祐筆の方が細かく調べられまして間違いがないかチェックされる丸とか三角とかバッテンとかいろんな印があります。遠藤三作のこの差出系図には少しも訂正箇所がなくて、そのまま受け付けられているのです。“私”の先祖の慶隆の妹の盛数の娘が、あなたのところの御先祖さまの奥方に入っておりますよと、自分がこれから仕えようとするお殿様へ書いて出しているのですよ。もしそれが間違いであるならばこれはここでチェックされて「なんていう無礼なことを書いておるか」といって突っ返されるところですが、そのまま受け付けられておるということは、お城方で認めていたと考えられますね。それで、遠藤三作、これは後の江戸時代後期の方ですけれども、その御先祖書が郡上の慈恩寺様やあちらこちらに残っております遠藤系図と全く同じなのです。それに丸山先生は驚かれたんですね。遠い郡上と高知の一致に非常に何とも言えないほど感激したということを研究報告に書いておられます。

一豊夫人「おまつさま」のこと             【資料9】

 そこで皆さん、系図の上でそういうことがあり、その見性院にそれ程の史料があるならば、なぜ他の人だというようなことになって見性院というものが認められていなかったのか、ということが問題になってきますね。そこで一豊の妻は山内家の系図を調べてみますと、「おまつさま」と書いてあるんですけれども、この近江の出の「おまつさま」という方についてお話いたします。その「おまつさま」という方はどういう方かと申しますと、近江の坂田郡の方でして若宮左馬助(さまのすけ)という方の娘さんなんだそうであります。この若宮家といいますのは、結構いいお家柄の方なんですが、この方のお父さんは浅井家の家来なんです。皆さん歴史でよくご承知のように、浅井と朝倉は信長に徹底的に憎まれまして、滅ぼされる人たちですね。そこで浅井・朝倉は信長と絶対妥協しなかった。最後まで敵対していくわけですね。そこで信長に攻められるのですが、この「おまつさま」のお父さんである若宮左馬助様は永禄9年(1566)8月戦死をなさるんです。戦死をなさって、まだ「おまつさま」が子供でお母様もすぐ亡くなっておられるらしいんですね。そこで、若宮の一族の方の養女に出されたんだそうであります。そこで、或る記録によると、こういうことが書いてある。これは本当か嘘かちょっとわからないですけれども、記録にですね、「おまつさま」は、はじめ丹波の宰相秀勝の家臣で赤尾孫助という武士に一度お嫁入りをなさっている。そうして孫助が死んだ後に、この方は、五藤家へ再嫁した。そして内蔵助正友を生んだ。これは、五藤家へ行ってから正友を生んだという事でありまして、正友というのは五藤為重の子供さんであり為重の跡取りであります。こんな記録があるのです。
 その次に、「おまつさま」の父の若宮左馬助のことなんですが、一つここで申し上げておきますが、実は遠藤慶隆も左馬助といった。前に皆さんにこれも話しましたが、八幡城一代城主の遠藤盛数が永禄5年(1562)井ノ口(岐阜)で病気で死にました時、長男の慶隆はわずか13才でした。だからその時に見性院様のお年は3〜4才位なんです。だから見性院様の後ろ盾をしている人が慶隆で左馬助、それから「おまつさま」の方も実際のお父様の名前が左馬助ということになると、ここでもこんがらがる一つの訳があるわけですね。後ほど詳しく話しますが、山内家の資料館にある資料にもいろいろ不明なもの、紛らわしいものがあり、これは一体本当の山内家のお嫁さんは誰だったんだろう、見性院は誰だったんだろうと、色々あったんですが最終的に東大の教授が、近江の「おまつさま」と判定されたらしいのです。

 ●郡上・高知で研究交流進み大和村史・通史編上巻」に山内一豊の妻

 ところがその後、丸山教授とか、それ以前には先ほど言いました紋章学の権威である方(もう亡くなられた沼田頼輔博士)とか、多数の方々が資料館の色々な史料を徹底的に調べにかかられたそうなんです。山内家に残されている膨大な史料を調べていくと、近江の若宮の娘「おまつさま」ではどうも理屈に合わないところが出てくる。これはおかしい。そして一方で丸山先生が発見されたような御系図書きが出てくる。これは美濃の郡上じゃないか、おかしい、ということになりました。一方、八幡出身静岡県在住の西村登氏が大手町の故村瀬幸吉さんや川上さんと慈恩寺の調査、滋賀県史の研究、山内家御当主とのお話など基礎研究を始めて下さり、慈恩寺前和尚様も大変協力をして下さいました。また丸山先生と、岐阜城の館長をしておられました郷浩先生とお二人が、代る代る郡上においでになり、連絡を取られて郡上の史料を集められた。この間亡くなられました川上さんにどんどんと、高知の史料を送って下さったのです。高知の方でこのように「おまつさま」でないという史料が出て来ているので郡上の史料を送ってくれということで、川上さんが中心となりまして、どんどんと郡上の史料を送られた。そして大和町史編纂委員の高橋吉一さんも熱心にこれを研究してみえまして、郡上に残っている史料を送られ丸山先生も多数の史料を高橋氏へ送付して下さいました。そうしてですね、当時発刊された「大和村史」の中に、《山内一豊の妻》の一節を設け高橋氏が担当執筆されました。また、御殿様自身も、去年もいれますと全部で8回ほど郡上へおいでになって慈恩寺様へ入られて調べられた。そうして、郡上説がこうズーッと上がってきたんですね。そこで川上さんに史料が流されるもんですから、川上さんは、もうこのことに自分の半生を賭けられたわけです。ところが、「おまつさま」だという事が定説となっておりますためにですね、なかなか皆さんがそれを受け入れることができなかったのです。それから、前々からいろいろ遠藤の系図を調べている地元の方達の中にも、遠藤氏についてはまだ研究すべきところがあるというので、すぐには受け入れられなかった。だから川上さんとしては随分苦労をなさったわけなんです。

山内家家老・五藤家系図と夫婦墓      【資料9】

 その丸山先生が最終的にこういうものを発見して下さった。ここん所を見て下さい。(資料)これもやはり御先祖書きなんですが、ここにですね一番終りの、この二重丸が打ってあるところに、為重と書いてありますね。その為重の下に、元禄元年からいろいろ書かれており、いついつ(木曽川町)黒田で生まれたっていうことが書いてありますね。その下にね「娶若宮女」と書いてありますね。為重ですよ。一豊でないですよ。為重、若宮の女を娶(めと)る、そうして、これだけの子供さんが生まれているのです。この系図帳は五藤というお家の系図なんです。五藤の「ご」は、ここらの「ごとう」は「後」という字を書きますが、算数の「五」を書きます。五藤家の系図の中にこのように若宮女は五藤家へお嫁入りしていらっしゃるという事がはっきり出ている。しかもこの五藤家というのは山内家の家老さんなんです。これは元もとの、尾州の時からの山内家の御家来でして、高知へ行かれてもずっと家老をしておられたし、安芸(高知県安芸市)という所に大きなお城をもらっておられるわけですけれども。この五藤家へ若宮の女の方が行っておられるということがはっきり出て来た。しかもその下を見て下さい。このお墓にですね、ちゃんと書いてあるんですね。何と書いてあるかというと、五藤為重の妻は若宮氏であるということが、しっかり書かれている。この二つは御夫婦の墓なんですが、近江の若宮家女「おまつさま」は、何と、殿様にいったと思われていたのに、そうではなくて、家老の五藤家へ入っておられた。ということがこの丸山先生やその他の方々の色々な研究によってはっきりと出て来た。この写真は丸山先生が写して送って下さったものなんです。この間、サミット(高知)に行きましたときも写真を写したんですが、こんなにきれいに字が出ませんので、やっぱり丸山先生の写されたのが一番きれいに出てますのでそれをここへ載せたわけです。これが出ました時には、もうこれは疑う余地がない、この事を聞きました川上さん達は、これはもう黙ってはおれないと。他所からですね、丸山先生や他所の研究者の方から、どんどんこのような史料が流されて来れば、もう郡上は立ち上がらざるをえない。丸山先生や郷先生(郷浩岐阜城館長)も郡上も立ち上がってくれと、いうふうにこちらへ申されたわけですね。ですから、本当にもう郷さんなんか気違いくらいになって、県立図書館にある『郡上古日記』にもちゃんと書いてあるんだ。郡上ボケボケしているな」と、いうことでだいぶん喝(カッ)を入れられたわけなんですが。そこで川上さんが矢面に立たれまして、半生をこのために尽くされたといってもいいくらいに努力をされたんです。(高知でのサミットのときお目にかかった現在の五藤家の大奥様も「おまつさま」は五藤家にいらしてるんですよと、はっきり話して下さいました。)ところが、なかなかそれが、一つの定説というもの、学会が認めている学説というものを変えるには普通100年かかると云われたものです。学説を一つひっくり返すことはとても難しい事なんです。そこで丸山先生たちがその筋へ、こういう史料が出ているから、これはおかしいから調べ直してほしいということを陳情をしておられる。おられるんですけれど、学説を変えることは大変なことだもんですから、まぁ暫らく待ってくれということで、今(1996年)はまだ学説としては「おまつさま」になっておりまして、「お千代様」にはなっていないんです。でも昔の教科書には「千代」とはっきり書いてありましたから不思議なことですね。しかし、これだけの史料があるんだから、これをうやむやにしてはもったいない。だから何とか銅像などを建ててやりたいというので、川上さんのお兄様(故川上傳吉氏)が銅像を寄付して下さいまして、台座は一般の方々の御寄付であの本丸跡に建ったわけですね。もちろんその前(1985年)に、一豊夫人の顕彰会が設立されて活動しておりましたが。

牛尾田文書(「おまつさま」は五藤家へお嫁入り)

 そこでもう一つ、プリントをめくっていただきますと、ここにこんな訳の判らない字が書かれた古文書があります。これは、この説を又一つ裏付ける書類であります。どういう書類かというと、牛尾田九郎右衛門という人と同喜七郎の二人が、国許の同じく牛尾田という人に出した手紙であります。「おまつさま」が五藤家へお嫁入りなさる時に、4人の従者が付いていきました。御供が付いて行ったのですね。その中の二人が自分の国許の近江のやはり自分の仲間の牛尾田という者に対して、無事に「おまつさま」が御縁組みになりましたよという事を書き送っているんですね。まだ、この前があるんですが、半分しか載せてないんですが、ここに「左馬助様御息女様五藤内蔵助殿御縁組み」と、ちゃんと書いています。御供に付いて行った家来が近江へ、五藤家へ行かれたと手紙を送ってる。これだけでも若宮の女の方は山内一豊へお嫁入りしたのではないということが判ります。この手紙は「牛尾田文書」と名づけられ重要なものです。

浅井長政の手紙(御まつ御料人宛て)

 まだあります。若宮左馬助は浅井の家来でございましたから、その浅井長政が「おまつさま」のお父様である左馬助が戦死をした時に、その悔やみと“あなたのお父様の領地のうちあなたにちゃんと渡す分を申し付けます”という、これは安堵状なんです。横に読み方を書いておきましたが「今度御親父御討ち死に中々申すばかりも御入候はずに御心中をしはかり参らせ候」との書き出しです。そしてその次に、お父上は中々のお働きであったからその御親父様の遺領のうち、17条の内の1町の土地と椿堂、それから蓮華寺というお寺の3ヶ所を「おまつさま」にちゃんと受け継いでもらうと記し、その一番終いに「御まつ御料人に下し参らせ候」とある。この「御まつさま」がいわゆる若宮左馬助様の娘さんで親戚へあずけられ、そして後にお嫁入りなさった「おまつさま」なのであります。そうするとこの「おまつさま」が山内家のお殿様にお嫁入りしたということは全く違い、五藤家すなわち家老の家へ行かれた。それがいつの間にやら、お殿様のお嫁様になってしまった、というようなことになっているわけですね。

戦乱の時代              【資料11】

 そこでもう一枚めくっていただきまして、ここのところ、見性院様の絵が付いている所に見性院様の一代のことを書いていますが、天正元年(1573)一豊は29歳の時、近江唐国(からくに)に400石をいただきました。これは今の長浜市の近くにある浅井郡虎姫町の一部でございます。次、同じ天正元年、信長の郡上攻めがありました。これは郡上まですぐには来ませんでしたが美濃市の立花までやって来ました。これはですね慶隆が安養寺と組んで武田信玄へ生き残りのため、信長にもいい顔して、信玄にもお手紙を差し上げて、信玄からも安養寺へ返事のお手紙が来てますね。「珍札被読・・」と書き出してあります。これは、いいことを教えてくれて有難うという手紙ですね。信玄がいいことを教えてくれて有難うということは安養寺が何事か信玄に都合のいいことを知らせてあげたということですね。それを信長が知りましてね、怒って郡上を攻めに立花まで来たことがある。これは慶隆が平謝りに謝りましてね許してもらったですけれども。その信玄がちょうどその年に死にます。全国制覇に向かって山梨から出てきたんですけれども途中で死にます。信長は、もうこれで後ろの方、すなわち山梨のほうの心配がなくなったので浅井・朝倉攻めを行いました。

永井隼人(見性院の母と再婚・信長は敵) 【資料12】

 プリントに、この頃に、隼人が討ち死にとこう書いてあります。この隼人討ち死にということはどういう意味があるかということをちょっとお話します。これもですね、お話をしたことがあるので思い出していただけるかも分かりませんし、もう忘れてしまわれたかもしれませんが。永禄5年(1562年)に盛数が病気でなくなります。その亡くなりましたときに慶隆はわずか13才でした。下の見性院様は3才位で小さいお子さんばかりです。そこで家来達が13才の慶隆を守るために、関の安桜(あさくら)城主でありますところの永井隼人がちょうどその頃お嫁さんを病気で失っておりましたので盛数の奥方に、すなわち盛数の奥方は東常慶の娘でしたね。その方に慶隆を守るために永井隼人へお嫁入りをしてください、再婚してくださいと頼んだ。ところが東家のお姫様で誇り高い女性ですからものすごく怒られたんですけれどもみんなで頼んで永井隼人のお嫁さんにいってもらっていたんですね。その永井隼人です。すなわちこの永井家と遠藤家とは奥様でつながっているわけです。この永井隼人は一代信長に抵抗をした人で、永禄8年(1565年)以降、信長の美濃残党狩りを逃れるため、近江の浅井長政の所に身を寄せていましたが、天正元年(1573年)8月頃死去します。戦国のならいで山内や遠藤は信長方についております。

二人の結婚と愛する子供の死(長浜で大地震)【資料12】

 そして、次に天正3年(1575年)に長篠の合戦がありまして、織田信長と家康の連合軍で武田勝頼と戦ったんですね。信長が鉄砲をたくさん持っていて、勝頼の方は馬で凄いっ戦争だったんですね。そして、これが済みました時に、また信長は朝倉の残党狩りを始めたんですね。慶隆はその案内役をしたりしています。そして、天正4年(1576年)になりますと、一豊は播磨の有年(うね)という所で700石をいただいています。そうして、ここの辺でですね、どうも一豊さんが結婚したらしい。どうして結婚のことがわかるといいますと、天正8年(1580年)頃に與祢姫(よねひめ)というお姫様が生まれている。話は飛びますが、さっき地震がありましたが、天正の大地震、この時にこの與祢姫がその下敷きになって死ぬんですね。一豊と見性院の間に生まれた子ですよ。6才で亡くなったといいますので、地震は天正13年(1585年)ですから逆算して大体の年代を出すわけです。その地震の前に一豊は長浜3万石を戴いている。段々出世しているわけですね。その後の天正15年(1787年)には対馬守をもらいます。一豊の奥さんに見性院がなられたときには一豊はまだ対馬守ではなかったわけですね。ちょっと後からもらわれているわけです。戦国時代の真っ只中で系図の整理は出来にくいので、一段落して整理をするというような事で、そのようになったのだと思われます。山内家の系図にもそのようなところがあるそうです。とにかく與祢姫が亡くなってしまいました。京都の妙心寺へほうむられましたがこの時の見性院は、実に一人きりのお嬢さんですから随分残念で力が落ちたことだと思います。

慶隆と見性院(妙心寺と慈恩寺を結ぶ糸)

 その後、見性院は妙心寺への墓参りのとき男の子を一人お拾いになりまして(ひろい)と名前をつけましてお育てになります。そして後にですね、その育てられた子供を妙心寺へあげられるんですね。與祢姫のお墓のある妙心寺へです。このお拾様が後の湘南和尚、この上にお坊さんの絵が書いてありますね。これが湘南和尚様でございます。これは妙心寺の大通院という所にお入りになって、この方は円明国師、その当時の円明国師というのが妙心寺全体の一番の偉いお坊さんでいらっしゃいました。その円明国師の教えを受けられてこの妙心寺の中の大通院というところに入られる。そうして與祢姫の回向(えこう)をされたわけです。そこで一つ付け加えますと、この妙心寺の円明国師、南化(なんげ)円明国師と申しますが、この当時の一番のお弟子が慈恩寺を築かれた半山和尚様です。この半山和尚様を後にですね慶隆が、この郡上へ2回目復帰して来ましてから、慶長5年(1600年)から慶長11年(1606年)の頃、もう妙心寺へ足繁く通いまして、そうして半山和尚様にですね郡上へ来て教えを広めてほしいということをお願いになる。この半山和尚という方は、なかなか郡上なんかへ来られるお坊様じゃなくて、これは円明国師の次に妙心寺を背負ってたたれる、妙心寺の大将になられるお坊様であるはずだったんです。それをですね慶隆がお願いしまして、とうとう慶長11年(1606年)に郡上へおいでいただいたんですね。私思いますのは、これは一人慶隆だけの力ではないと思うんです。話が前後しますけれども、見性院は御主人の一豊さんが亡くなられて1年もたたないうちに、皆さんがとめるのも聞かないで妙心寺の付近へ行ってしまわれます。そうして一豊様のお墓も妙心寺にありますので、一豊様のお墓と娘の與祢姫のお墓のお守りに明け暮らされます。慶隆が妙心寺のほうへ行ってお願いをした時、見性院のことを当然半山和尚も知っておられますから、妙心寺の大将になられるような位の高い和尚様が慈恩寺へ来て下さったのではないでしょうか。陰に見性院のお力があったんではないかと思います。これは書いたものもありませんけれども、僧でなければそのような素晴しい徳の高い和尚様が郡上へおいでいただくという事は簡単にできることではないですね。慶長8年(1603年)一豊土佐守、大通院を建てる。この頃、慶隆、大通院に何回も行く。半山和尚に接する。その徳に打たれて郡上へお招きをする。慶長11年(1606年)半山和尚による慈恩寺の開基とある所を見て下さい。その次にですね慶長19年(1614年)・元和元年(1615年)に大坂冬の陣・夏の陣がありますね。そして元和3年(1817年)12月4日には見性院が京都で死去されます。その翌年の元和4年(1618年)に安右衛門三十郎が由緒を以って登用されたわけです。これは前にお話しました。そして寛永9年(1632年)に慶隆が死にます。それから寛永16年(1639年)には例の若宮から五藤家へ入られた「おまつさま」が亡くなっております。これはズーッと後のことですけれどね。これは大体ちょっと申し上げたんですが細かくて読めませんでしたのでプリントに又皆様目を通しておいて下さい。

母(友順尼)から見性院を探る      【資料13】

 次に私が一つ考えましたことは見性院様の御身分を明かしていくために見性院の動きを探りたい。見性院がお父様の盛数にわずか三才で死に別れ、お母様は関の安桜城主の永井隼人のところへ再婚させられた。その時にその子どもさんである見性院様はどうなされたんだろう?。わずか三才か4才のお子さんですから、そこらへほって置かれるわけはありません。もうこれは絶対にですね、慶隆様兄弟の下の女の方はお二人はお母さんが連れていらっしゃるに間違いない。皆さんだってそうでしょう。御自分のお子さんがそういうことになったら、決してそんな小さい子を、母が生きている以上、離すはずはありません。しかも東家の血筋を引いた本当に素晴しいお母様ですから、二人の女の子をしっかり養育するために必ず手を引かれて連れておられる。そういうことが考えられます。そこで私が思いましたのは、この見性院様のお母様のお名前もわかりません。法名は友順尼、友順様と申し上げます。この友順さまの動きを探ればもしかしたら見性院の動きも分かるんではなかろうかというので、友順の動きをずーっと探っていきましたのが、この最後の細かい文字だけの写真も何もないプリントです。ちょっと急いで読んでみます。永禄5年(1562年)、八幡城主遠藤盛数、井ノ口(岐阜)で病死。永禄6年(1563年)頃、盛数妻、こどもを守るため(慶隆13才、見性院3才ころ)関城主の永井隼人に再嫁。永井隼人の屋敷が井ノ口にあり二人の娘は母と共にそこにいた。

●安東家のこと(遠藤と山内を結ぶ家)     【資料13】

その次、永禄7年(1564年)近江の国境の岩手城というところの竹中半兵衛とという、これ、妻はですね安東家から行っておるのですが、この安東家というのは皆さん覚えていらっしゃいますでしょうか。東常縁のお兄さん、上から2番目のお兄さんの氏世という方が昔お婿入りをなさった家がこの安東家であります。東家からお婿入りをしていますので安藤の「藤」という字を使わないで絶対に「東」(とう)を使っていますが、この安東家であります。この安東家のお城は本巣の北方にあります。この安東家の一番の長男に伊賀守守就(もりさと)という方があるんですが、その守就という方の娘さんが、この竹中半兵衛という人のお嫁さんになっているんですね。もう、この安東家と山内家・遠藤家・永井家・竹中家・不破家などは全部親戚でがんじがらめになってるんですけれど。竹中半兵衛という方が斉藤龍興に対し反目して稲葉城を乗っ取りました。永禄7年(1564年)のことです。これに対して、安東家は親戚ですので、安東一族が竹中半兵衛に呼応して「ワーワーッ」と鬨の声を上げて応援をしたという記事が残っております。
 
 その時に、井ノ口(岐阜)の隼人の家に慶隆兄弟が遊びに来ていました。これはね月日まで分かっているんですよ。8月15です。そしてね、確かにこの時は、井ノ口の隼人の家に、お母さんの友順とその子供全部が集まってるんです。ここまでは確かな記録がございますので探れるんです。そこで次に一同はどうしたかというと、岐阜城を乗っ取るという騒ぎで岐阜の城下町が大騒ぎになりましたので、この隼人の所へ行っていた慶隆の親子たちは、今の山県郡(やまがたぐん)の深瀬村という所へ全部、難を避けました。これも記録がちゃんとあります。ここは本巣の北方の先ほどの安東家の勢力下であったので、このお城へ逃げていきました。しっかりとお母さんの友順尼のところに子供はくっ付いているわけですね。
 
 永井隼人、信長から逃れる          【資料13】

 ぞの次に永禄8年9月、信長が関の安桜城へ襲い掛かりました。信長は、何でも信長の反対をする永井隼人は邪魔ですのでこれを攻めた。このとき隼人は、井ノ口の周辺の加治田という所へ出兵しておりました。そしてこの戦争の後、信長の誠に執拗な美濃の残党狩りというのが始まりました。そこで隼人は、もうそこにおることが出来なくて浅井や朝倉を頼るしかないので江州を頼って逃げていきました。そして永禄9年(1566年)、浅井長政のもとへ入ります。おそらく、その永井隼人と再婚したお母様と見性院は一緒に近江へ落ちているようなのです。信長の残党狩りというのはとても恐ろしく岐阜の周りにうろうろしておれない。だから浅井を頼りまして江州へ落ち延びていったのです。これも近江の「おまつさま」とこんがらがる一つの原因にもなるわけです。その次に、先ほど言いました永禄8年(1565年)、本巣北方の安東伊賀守の娘を慶隆がお嫁様にもらいました。これは翌年、女の子を生まれましたんですが、すぐ死んで終われました。それで残りましたお姫様を慶隆は育てられてこの娘さんが大きくなって飛騨の金森可重(ありしげ)の所へお嫁入りに行かれました。そしてそこで子供さんが生まれます。最初に生まれました子供さんが金森宗和という方でお茶の指南に入られるんです。これは後のことを一緒に話しているので皆さん頭がゴチャゴチャになるかもしれませんが。この金森宗和のお母さん(遠藤慶隆の娘)は、後に京都の室町に住まわれたので「室町殿」と呼ばれています。

その次ですね、永禄9年(1566年)8月9日、おまつ御料人の父親が戦死しまして、先ほど見ました浅井長政からの安堵状が届く。この安堵状には永禄9年閏(うるう)8月13日とはっきりと書かれてあり、浅井長政が直ちにこの安堵状を出していることがわかります。浅井長政は家来を大事にするよい人のようですね。永禄9年以降、隼人は主として近江におります。それは信長の美濃の残党狩りが厳しかったので母子ともに、この見性院たちも一緒に居ったのではないかと丸山先生もおっしゃっております。論文の中にもそのように書かれております。そうでないと危なくておる所がないわけです。信長という方は皆さんも知っていらっしゃるように中々冷酷な面がございましたので、許さないというと、どんなことでもやられる、お坊様を何千人と殺すというような、比叡山焼き討ちもしたことですから怖いんですね。
 
 その次、プリントの11番目ですが、永禄12年(1569年)に飛騨の三木(みつき)自綱(よりつな)が郡上を攻めたことがあります。この時、慶隆は和睦を致しまして、前の奥様(安東家の娘)が永禄9年に亡くなっていますので、三木の娘さんをお嫁さんにされる。これは前の講座でお話したことがあります。

その次に12番、元亀元年(1570年)、信長が朝倉攻めを行いました。一豊や慶隆は一緒に秀吉の下に入りまして姉川の戦いに出ております。そしてこの姉川の戦いの時も遠藤は安養寺とともに信長と武田へいろいろ両面外交をやっておるわけです。

その次、元亀3年(1572年)本願寺の教如が、朝倉義景の娘さんをお嫁さんにしております。一方、元亀元年(1570年)から天正9年(1580年)までの10年間は石山本願寺を守るための石山合戦の最中で、教如はもちろん反信長勢力ですね。天正元年(1573年)、永井隼人が討ち死にします。永井隼人一族の18代子孫の永井源六郎氏(武芸川町)は、数年前「戦国武将、永井隼人とその系譜」を発刊され系図とともに見性院の郡上説を発表しておられます。浅井長政の城も落城、浅井長政も死にます。
 
 
●美並村の乗性寺に母・友順尼の記録  【資料13】

 ここに、大切なことがあります。見性院の母はこの頃に先ほどの教如様、この方に出会ったらしいんですね。そして、教えを受けましてここで法名をいただかれまして友順尼となられた。これはちゃんと記録がございます。見性院が山内一豊へお嫁入りしたのはこのお母さんが出家されてお坊さんの姿になられるこの少し後ぐらいかと思われるのです。説としては16才位というのもあるし14才位ともいえますし、ここんところはちょっと何とも申し上げれれない、まあ14〜15才というところでお嫁入りなさっている。先ほど話した與祢姫との関係からも大体このあたりであります。

そして次にこういうことを郡上の美並村のお寺からお聞きしましたのでお話します。美並村乗性寺、ここは昔、戸谷庵とか戸谷坊と云いまして東家と遠藤家のお位牌やお墓のあるお寺でございます。この遠藤家のお位牌所に、寛政年間(1789〜1800)、これはもう江戸に入って165年ほど経っておりますけれど、その記録にこういうことが書いてあるそうであります。これも私、実地にまだ見ておりませんので一度見せて頂きに行って写真を撮ってこようと思うんですが、これは和尚様にお電話で承って書き留めたものであります。「照用院殿釈友順」、という項目があるそうでございます。この照用院殿釈友順というのが見性院様のお母様。「東六郎左衛門平盛数公奥方、盛数公永禄5年卒去後・・・・永井隼人方江御再婚、埴生(はぶ)太郎左衛門尉高照御附人ニテ岐阜江参り・・・・隼人討死後教如上人江発心シ照用院殿友順ト改名アル。」(点々の所は略してある)と記されており続いて見性院の母の付人の埴生太郎左衛門尉高照も教如上人の教化により「西教坊照山当山十七世トナル」と書いてあるそうです。当山とはこの乗性寺の17代をお継ぎになったということですね。

 

埴生家(東家の古い家臣の家柄)

この乗性寺の記録は重要でとても有り難いものですが、次に、この埴生家とは何ぞや、ということなんですが、この埴生家というのは、東氏が鎌倉時代、山田荘に着任をしました時、下総の東庄(とうのしょう)から家来として、東氏に従ってきた家柄であります。東家からの歴代の大切な家臣であります。だからこの埴生という方は、盛数のところへ東家13代東常慶のお嬢様がお嫁入りなさるとき、東家から付いてきた家来なんですね。そうして、その友順様が又、関へ再婚なさる時も、ずーっと付いて行ったわけです。だからこの埴生高照という方は一代この友順様に付き添って最期を看取った人なんです。だからこの記録はたいしたもんであります。そして現大和町にも埴生という苗字を名乗っておられる御一族が1軒残っておられます。このようにですね、この友順様には最後まで東家の家来が付いていたんですね。だから、埴生さんは見性院様が山内一豊にお嫁入りになるまでは一緒だったわけです。見性院がお嫁入りされればお母さんも身軽になる。そこで美並村へ来られて戸谷庵へ入られ天正10年(1582年)に死去されているんのです。だからそこにお位牌や記録が残っているんですね。友順様も家来の埴生様も故郷に帰ることが出来てよかったですね。

 母子、身の上を語らず流浪

以上のように見性院様とそのお母様の友順様の動きを年代的に調べてみると永井隼人と信長の関係で、信長の残党狩りから逃れるため、近江の浅井長政の方へ行っておられることが推察されるのですね。その上、山内一豊も兄の遠藤慶隆も信長の陣営について行動しているのは前にも話したとおりですから、自分が東家や遠藤家の筋であるということを話すわけにはいかないのですね。身の上を語ることは自殺的行為であるわけですね。見性院は、わずか3年くらいしか八幡に住むことが出来ず、お母さんが永井家へ再婚以来、井ノ口(岐阜)・深瀬・北方の安東家・近江方面と、母と共に流浪の身の上なんですね。この時代はまさに戦国時代の最中で、全く目まぐるしいのです。けれども慶隆と山内一豊はいつも一緒に行動しています。その間に、常に安東家(北方)・不破家・梶原家がいつも動いているんです。安東家の娘さんが慶隆のお嫁さんであった事は前に話しましたが、一豊の妹の米姫が永井隼人の甥の源兵衛利直と結婚とか、一豊の姉の通姫が安東家の養女になったあと安東伊賀守守就の弟・郷氏の奥方になっているとかですね、そして見性院も安東家へ身を寄せており、系図のなかには(美濃諸家譜)安東守就の娘が「山内一豊室」と記しているのもあるんです。安東家と永井家は、もともと同族なんですね。(土岐氏の重臣)そんな関係で、一事身を寄せたりしている娘さんなどがいくらでもあるわけです。

小牧・長久手戦の陣立(一豊・慶隆軍団)   【資料7・下】

家と家の間柄についてお話したついでに「大日本史料」の中から、小牧・長久手の合戦の折の陣立の事を参考にお話します。これは、秀吉と家康の戦いですが、天正2年(1584年)8月19日の条に「太閤様御人数立」の中に次のような一団が記されている。これは小牧の北の楽田あたりの左翼陣第二番手で「日根野備中守殿、同常陸介殿千五百・佐藤六左衛門殿四百・遠藤大隈守殿(木越遠藤)・同左馬助殿六百(遠藤慶隆)・山内伊右衛門尉七百(山内一豊)」とあります。日根野、佐藤、山内は全部遠藤家と婚姻関係を結んでいる親類同士であります。するとこの第2陣は、遠藤の親類軍団ということになります。日本の古城研究をしておられ、郡上の中世以後の城跡を全部見ていただいた林春樹先生も、戦国時代などは特に血縁のあるものを一団として陣立てをしている例が多いと話しておられます。その方が安心度が高いですからね。これも遠藤氏と山内氏の関係を知る上で参考になる例でありますね。

新史料◎秀吉朱印状の越中富山の佐々成政攻めの陣立

梶原氏と山内家

次に一豊のお母さん、これは梶原氏の出でございますが、梶原氏というのは、頼朝が鎌倉幕府をつくるときに非常に手柄がありました梶原景時の系統の方ですね。後にその梶原氏は美濃の国主としてこちらへ来られた事がありまして、又戻って行かれるんですが、一部が残られるんです。その梶原氏の御子孫が現在の梶原知事さんです。城山本丸の銅像の除幕式に出席されましたが、関係がある位の話ではありませんね。一豊様のお母さんは、非常にお裁縫が上手で、若宮の「おまつさま」が、不破家へいっていたときなんかに、一時お仕えしたとか、その方にお裁縫を習ったとか、それを見込まれて一豊様のお嫁様になったというような言い伝えもあります。ところがですね、それは先ほどのようなことで、もちろん梶原氏と一豊と「おまつさま」の接点はどこかであったと思われますけれども、この「おまつさま」は先ほど繰り返して言いまし五藤家へいっておられるという事がはっきりしておりますので、これはもう崩すことが出来ないんですね。そうすると、残るは、この見性院様。これだけの色々な史料がございますので、もう見性院様をおいて他にないわけなんですね。

 若宮外記仲間の人々(五藤家と外記)

 それから、もう一つだけ申しますと、先ほど「おまつさま」が浅井長政からお父さんの左馬助の領地を安堵されたという事を言いましたですね。手紙がありましたよですね。安堵状といいますが。ただ今でも、若宮外記仲間、プリントに書いてありますが、外(そと)、記す(しるす)と書きまして外記仲間(げきなかま)という16〜17名くらいのお仲間が、この若宮氏の領地とお宮さんを守っていらっしゃる。どういうふうにして守っていらっしゃるかは判りませんが、そこから利益が少々上がる。その利益でお宮さんのお手入れをしたり、絶えてしまった若宮の回向(えこう)をしていらっしゃるそうです。その人達が外記仲間という仲間を作っていらっしゃるんだそうであります。そこで、この外記仲間というものは一体どういうものかということ、どこから「外記」という名前が出て来たのかということを研究する必要があるわけです。これは、私の従兄のものが東京のほうにおりまして、この人はいろいろなものを書いている人で歴史の研究をする人であります。宮内庁の中だろうと何であろうとどこへでも研究に入っていくことの出来る人なので彼に調査を依頼しました。彼が現場へ出かけまして、どうして外記仲間のいうのかを尋ねたところ、地元のその方たちがおっしゃるには、理由ははっきりしないけれども「外記仲間」と呼んでいるということでした。そこで今度は、彼は五藤家の系図を調べたんですね。そうすると、そこに出てくる人のとても多くに「外記」という名が出てくるのです。五藤家では世襲的感じで「外記」が使われている。若宮や山内にはそれがない。とするとこれは五藤家へ「おまつさん」がお嫁入りされていることと合致するわけです。ここでも、「おまつさん」は山内家へ行ったのではないということが判るんです。

 見性院と東常縁直筆の古今和歌集     【資料12・左上】

 それからこういうこともあるんですね。見性院様がお亡くなりになったときの話なんですが、《元和3年(1617年)12月14日》見性院様は京都でお亡くなりになる前にですね、ご自分が拾って育てられた「お拾い」、彼を妙心寺へ入れられまして、そこで湘南和尚となられておって、いつも見性院の側にいるわけですけれども、彼を枕元に呼び寄せましてね、2代目藩主の山内忠義公へその湘南和尚を通じましてお形見を渡されるんです。このことは山内家の記録にあるので私の作り話ではありません。そのお形見が、記録を読みますと、見性院様のお大切の品というふうに書いてある、そのお大切の品を湘南和尚に渡される。その渡されたものの中にですね「古今和歌集」が2巻入っているんです。その古今和歌集は東常縁直筆だったんです。これはですね大変なことです。それから御料紙、文箱、けったんの文箱と書いてあります。けったんというのは、ここのところ字が消えていまして何のことかわかりませんが、不箱(ふばこ)と書いてあります。このくらいのお手紙などを入れる机の上に置かれますところの箱ですね。まだ他にも徒然草などもあるんですよね。見性院様はこの古今和歌集をいつも読んでいらっしゃった。古今和歌集を身辺から離されなかった。徒然草も常に机の上に据えていらっしゃる。そしてそれを大切な品として忠義公へ渡してくれと湘南和尚にお渡しになった。翌年頃に湘南和尚が忠義公にお届けになる。その物がもう少し経ちましてから、山内家から徳川家へ献上されている。その献上された中に東常縁公の直筆の古今和歌集もあったんですね。〔これは、徳川実記にはっきり書いてあります、〕そこで。今の世の中ならいざ知らず、この時代に直筆の巻物なんていうものは、やたら手に入るものではありません。これはですね、見性院様のお母様が東家のお嬢様であり、そのお母様に最期まで手を引かれておいでになった見性院様に「東常縁公の直筆の古今和歌集」などが渡された。この流れしか考えられないですね。それは見性院様が東家から遠藤家への流れを引いていらっしゃる方だからこそ、東家にとって非常に尊い常縁公の直筆の巻物が見性院の手元に渡った。これが山内家に入った。そして徳川家へ献上された。ということですね。母の友順さまはとてもしっかりした女性であることが随所のエピソードに表れています。おそらく14〜15才まで連れて流浪されている間に、古今和歌集のことなどをしっかりと見性院に教育されたと思います。私がもしそのお母さんだったら東家の娘としてきっとそうしたと思います。

(※「大和村史」に“御病気就御大切”を“大切な”と現代風に訳したのは誤りで病気が悪化するのを言うというご指摘を高知の岩崎義郎さんの「見性院の出自の謎」(リーブル出版)にていただきました。この講演では“大切な”という意味でお話しています。) 
古今伝授の里ホームページ「古今伝授」へ
  

 安東家の藤巴(ふじどもえ)の紋のこと

 それから。もう一つ調べておりましたところ、先ほど申しました文、お手紙を入れる文箱ですね、その藤巴の門が付いていた。(これも徳川実記に書かれている)彼がですね、どこの紋かと申しますと先ほどの安東家の紋なんであります。安東家は先ほど言いましたように東常縁の次兄の氏世(うじよ)がお婿入りをしている家であり(ずっと前のことですけれども)、しかもあらゆるところで遠藤家と安東家とは関係が深い。そのことは前にお話しましたように見性院も見性院のお母さんも安東家のお家へかなり行っていたんですね。安東家のほうへお世話になっていましたので、そこでおそらくいただかれた文箱を見性院が大切にお持ちになっていたんではなかろうかと思ったのですね。これは大変有力な史料であると思ったんですけれども、お殿様のお言葉によると若宮家も藤巴の紋なんだそうです。これもこんがらがる理由なんですよね。そこで、一つ今もって判らないことは藤巴に葉3種類ある。一つ巴、二つ巴、三つ巴という藤のこれがキューッと、こうねじた、その3種類ある。そこで美濃の谷口村の汾陽寺というお寺に芽を付けたのです。この安東家は天正10年(1582)信長の重臣・稲葉一鉄(八幡城第3代城主・稲葉貞通のお父さんです)に攻められまして滅びてしまう。前にお話しましたように安東家へは一豊様のお姉様の通姫という方が、お嫁入りなさっていましたね。お子さんもあります。ところが安東家は城がなくなってしまい、一族の方は全部戦死されてしまった。そこで一豊が通姫と子供さんと一緒に引き取って土佐の方でお育てになった。その安東家のお位牌が美濃の谷口村の汾陽寺という非常に古いお寺の中にある。ですからもしかしたら昔はお位牌の上にその家の紋を付けることがよくありますので、川上さんにお話しましたところ川上さんが連絡をとっていろいろ調べてくれたんです。ところがですね、それが付いていない。一つ巴か二つ巴か三つ巴かも勿論判らないんです。そこでもし安東家の御紋がどれか、一、二、三のうち、これがピタッと一致するのか違うものなのか、これは藤巴の謎とでも言いましょうか。まだ調べなければなりません。とにかく色々な面から見性院を、長年、川上さんのお父様が研究されたのですが亡くなってしまわれましたので、私がその後をちょっとまとめて話さしていただいておるんですけども、ご子息の川上さんも一生懸命走り回っておって下さるんですが、まだまだ調べなければならないことが多いのです。

 郡上八幡で「一豊& 千代サミット」開催決定

 見性院のこのお大切な品の中に古今和歌集があったということは、これはね、ちょっとやっそっとの人では直筆の古今集はもてませんですね。だからお血筋であったからこそ持てたんではなかろうか。これは私達にとってはプラスの証拠になるんですね。しっかり書いたものがないと断定をするな。学者の方で厳しく言われる方もありますけれども、これ以上もう調べようがない気も致します。又、何か天から降ったようにいい史料が出れば別ですけれども。けれども色々な状況を総合いたしますと「おまつさま」のほうの証拠は一つずつ消えていく。お墓とか文書(もんじょ)とか。そして見性院様のほうは、プラスの要因が挙がっている。こういうことで丸山先生も論文をお書き下さったんですね。そして郡上も、しっかり研究をやってほしいということで、去年だけでも何回かお殿様がおいでいただいているんですよね。ここで来年の秋、一豊&千代サミットが郡上八幡で行われることになりました。去年は掛川、一番最初お城を作って入られた掛川でやられまして、そして今年は土佐でやられまして、来年は奥方のほうの所でということで、色々な状況があってでございますけれども来年は八幡でサミットが行われるということになっています。この間、野田(商工観光)課長さんからお聞きしますと、掛川がですね来年のサミットには250人引き連れてくるから早く日にちを決めてくれと。でないと宿の予約が取れない。250人いっぺんに泊まろうと思うと千虎しか泊まれない。だからあそこへ予約するには日にちが決まらないと出来ないので早く決めてくれと連絡があったそうです。よその方がそういうふうに一生懸命になっていらっしゃるわけで、八幡もですね来年は町を挙げてサミットを成功させたいと思うわけです。私は歴史に間違ったことが書かれていて、それが本当だということになってしまうということは非常に残念な事だと思います。だからこのあたりで、もう末になればなるほど研究ができなくなりますので、今のうちにしっかり研究したい。そして、現在でもこれだけの史料があるんですから、八幡は地震をもってサミットを行うことによって、町興しの一助にもなればと思います。このような訳で皆さんの御協力を得たいと思っております。残念なことにこの間、顕彰会会長の山田(秀道)さんが急にお亡くなりになってしまいまして、誠に顕彰会は力を落しているところでございますけれども、又これ何かと立て直してですねやりたいと思うわけです。どうぞ新しく顕彰会へもお入りをいただいてでもですね、どうかお力をお貸し願いたいと思います。

 おわりに(見性院の一生をふり返って)

 以上のような意味で、私は間違っている歴史は正さなければならないと思います。しかも、このような立派な見性院という方が郡上の方というのです。見性院は関ヶ原の合戦の時にもですね、その直前に栃木県の小山の夫のもとに密書を送られた。そしてその密書によって大坂方の様子を家康の方へ流して関ヶ原の合戦を有利に導いたなど、いろいろお手柄もあり、鏡台の中に入れていた小判を出して馬を買ったとか、そして夫を助け貧困を乗り切ったとか色々なことがありますが、そういうことは今日は詳しくお話しませんでしたけれども、そういう立派な女性だからなおさらです。この間、サミットに行った時に高知新聞客員の山田一郎さんの講演の中にありましたが、見性院様の作られた和歌を見ると、確かにこの方は古今和歌集を研究しておられる方だ。そうでないとこういう歌はできないという事でした。その一つ

   悟りへて 迷いの雲の 晴れぬれば

           真如の月を 見るぞ嬉しき

というのです。これは、たった一人の與祢(よね)姫を失い、そしてその後、お子様に恵まれませんでした。そうして最期まで一豊公と與祢姫のお墓のお守りをしてですね京都で一生を終られました。ある意味では、お父さんに早く別れ(わずか3才)お母さんと流浪を続け、そして一豊に嫁がれてからお子様がそういうことになりまして、非常に寂しいものがあったのではないかと思います。そして夫に先立たれて、もう何も土佐に居る気持ちがなかったんでないかと。だからひたすらに、お墓のある自分の與祢姫と一豊様のお墓のある京都へ走って行かれたんだと私は思います。私も子どもがございません、本当の子どもがございませんでしたから、この見性院の、子どものない見性院という方の女性としての気持ち、その夫に別れた後の気持ちはひしひしと私にはわかります。一周忌も済まないのに京都へ行ってしまったのですね。家来も止めたそうですけど行ってしまわれた。私はその見性院のやるせない気持ちが身にしみます。まだ証拠不十分で研究中のものがありますが、今日は一応、見性院様の御一代記を話させていただきました。どうもありがとうございました。(大きな拍手)

 

 

 

資料・年表が付く

 

あとがき

 この記録は「郡上八幡ふるさと探訪」の第4回講座(主催・八幡町教育委員会、八幡町中央公民館)で話したものの聞き書きであります。そのため時代が前後したり、繰り返し話したりして雑然とした点が多いのですが、話し言葉そのままであることは、親しみやすいという点もあるかと思います。また、ここで話していますことは、講話者一人の研究なのではなく、高知市の丸山和雄氏(県立高知女子大学名誉教授)の論文や、紋章学の権威者で山内家家史編輯所主任でもあった故沼田頼輔博士の研究なども含め、郡上の史料を加えたものをまとめたものであります。

 平成8年(1996年)秋には第3回「一豊&千代サミット」が郡上八幡で開催されることになりましたが、平成6年に一豊と夫人の銅像建立以来、その歴史的内容を活字化していなかったので、参考のため講座内容に一部加筆してまとめ小冊子と致しました。

         はなし     佐藤とき子(八幡町文化財審議委員)

         聞き書き    川上朝史 (山内一豊夫人顕彰会事務局)

               1995年(平成7年)12月7日 午後1時30分〜3時30分

              郡上八幡文化センター(多目的ホール)にて

                              発行   山内一豊夫人顕彰会

 1996年(平成8年)6月27日             発行協力 八幡町教育委員会



2004年7月23日
※ NHK大河ドラマ(2006年)に「山内一豊の妻」が決まったと発表されたので出身地・郡上より喜びを込めて発信をいたします。
※ 「20年目を迎える顕彰会」へ(ごあいさつ)

      

山内一豊夫人顕彰会のホームページへ