見性院と山内一豊の年表(結婚前後から)    一豊&千代年表へ     山内一豊夫人顕彰会へ

     天正元年〜4年(1573〜1576)近江唐国400石(虎姫町)。一豊29歳。

     信長の郡上攻め(信玄への内通を怒る。立花山=美濃市)       

     信玄没。信長の浅井朝倉攻め(見性院の母の再婚相手だった永井隼人が討死)

     天正3年(1575)、長篠合戦。遠藤慶隆(見性院の長兄)信長軍にいる。秋、朝倉残党攻め。

     天正4年(1576)、一豊播磨有年(赤穂市)700石。

     天正5年(1577)、一豊播磨有年(赤穂市)2,000石に加増。

     結婚は天正元年から4年までの間。(文化財審議委員の高橋教雄氏は元亀2=1570年に15歳で結婚と)

     天正8年(1580)、与祢姫生れる。見性院21歳くらい。

     天正9年(1581)、安東守就一族が稲葉一鉄父子に滅ぼされる。(天正10年の方がよい。川上)

     天正10年(1582)6月、本能寺の変。信長死す。一豊38歳。

     この年、千代の母・友順が死去。美並・乗性寺(郡上市)。

     天正12年(1584)、小牧長久手合戦で一豊・遠藤慶隆(千代の長兄)2番備えで同陣。

     天正13年(1585)、越中の佐々成政攻めに一豊・慶隆3番備えで同陣

     佐々成政攻めの直後、長浜30,000石に。

     同年11月29日、長浜大地震で与祢姫が圧死(6歳)

     天正15年(1587)、対馬守となる。一豊43歳。

     見性院、子供を妙心寺門前で拾い育てる。(後の湘南和尚)

     秀吉九州攻め。遠藤本家・木越城主(郡上市大和町)の遠藤胤基の弟・胤安が戦死。

     天正16年(1588)、慶隆左遷、郡上を去る。弟の慶胤は近江日野1,000石。稲葉貞通が郡上へ。

     天正17から18年、小田原攻め。慶隆参加。

     天正18年(1590)掛川を受ける。一豊46歳。

     文禄元年(1592)一豊弟康豊の子忠義生れる。

     慶胤第13子・三十郎生れる。 三十郎土佐仕官 土佐藩の三十郎

     慶長元年、湘南出家。妙心寺の南化国師に学ぶ。

     慶長2年、秀吉の死。

     慶長5年(1600)9月、関ヶ原の合戦。

     その直前に八幡城の合戦。慶隆、郡上に復帰。27,000石。

     一豊、土佐高知240,000石。

     慶長8年(1603)、一豊、土佐守に。59歳。大通院を建てる。

     この頃、慶隆、大通院に何度も行く。半山和尚に接す。(人徳にうたれる)

     慶長10年(1605)、一豊の死。

     慶長11年(1606)6月13日、見性院、一周忌を待たず京都へ。(河内山発伏見で向う。後京都桑原町へ。)

     慶長11年、半山和尚による慈恩寺開基。

     慶長19年(1614)・元和元年(1615)大坂冬の陣、夏の陣。

     元和3年(1617)12月4日、見性院死去。御形見を忠義公へ。

     元和4年(1618)、遠藤安右衛門(三十郎)御由緒をもって江戸で登用。

     同年但馬守慶隆12男郷忠、安東家から蒲生の養子となっていたが本姓安東に戻る(元和5年から)現安東喜馬大・元祖ニ候→と言う文書あり。

     寛永9年(1632)、慶隆死去。

     寛永16年(1639)10月13日、若宮女(おまつ様)死去。

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