遠藤春海さんは、明治39年8月10日生れ、旧高知一中出身、住所は南国市里改田。
一豊夫人の兄・遠藤慶胤の末子であり土佐遠藤家の始祖である遠藤三十郎(安右衛門)から数えて18代目の子孫であり、一豊夫人の郡上出身を証拠立てる、尊い生き証人でありました。土佐藩へ系図を出した遠藤三作の孫に当られます。
春海さんは、丸山先生が1983年(昭和58)訪ねられるまでの20年ほどは、誰にもこのことを話されなかったそうです。「私としては、今さら先祖がどうのこうのと言っても始るものではありませんが、何とかして現在の通説の誤りを正したい。そういう気持ちなんです。」と言ってみえました。(高知新聞) ↓(下へ続く)
春海さんの父・勝三郎氏は、細菌学で有名な北里柴三郎博士の書生を勤め、医師の免許を得られ、この南国市で医者をしておられました。 大正13年に邸宅を全焼し、名刀・名画・古文書等一切を焼失しましたが、その時、遠藤家記録も失っており、現在は菩提寺要法寺に過去帳を残すのみとなりました。 誠に惜しいことであります。
上の写真は、平成7年(1995)高知市での第2回一豊&千代サミットの日、佐藤とき子と川上朝史の両名がお邪魔して撮ったものです。右側瓦屋根の家が勝三郎氏が住んでおられた家で、左側の新しい家に春海氏が住んでおられました。春海氏は、若い頃は議員も勤めておられ元気なご様子でした。
読書と囲碁が大好きとのことで、ちょうど近所の囲碁友達がみえたら、私たちをさておき、早速に対局が始まりました。庭のイチジクの実を採りご馳走してくださいました。又、時には葉書を下さり、土佐の名物といって、魚の干物などを郡上へ送ってくださいました。
それから2年後(平成9年4月27日)93歳で亡くなられ、2001年(平成13)高知での第8回サミットの時、お孫さんに案内されお仏壇にお参りしてきました。
なお、この遠藤春海さんを探し出されたのは高知県立女子大学の名誉教授・丸山和雄先生でした。奥様と共に高知県立図書館の「御侍中系図帖」などを読まれ、高知のどこかにその子孫の方々がいるはずだと、電話帳を頼りにして探し出されました。驚くべき御努力です