↑青銅鏡・鏡箱ふたや武佐枡。底はまな板代わりに煙草を刻んだというが・(「疑うべき第六」参照)
近江に伝わることや上の写真(鏡や枡や轡のカラー写真:宇賀野長野家蔵)などが、長浜城歴史博物館でもとめた(知ってるつもりの再発見)「みーな」(一豊公と千代様)に載っています。
以下は、「一豊公紀」の134ページ。読みやすいようにと読み下し文調にしました.。「一豊公紀」写真へ
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〔御家伝羽翼〕
御由緒書並に願い奉る口上覚
江州坂田郡宇賀野村 長野市右衛門
一 拙者、中古先祖は長野助市と申す者、恐れながら御当家様御先祖君・一豊様、並びに御母様を御養育申し上げ奉り候ふ。その故は、弘治3年尾州黒田城を一豊様御幼君にて御母君御一所に逃れ出でさせられ、彼是御流浪あらせられ候ふ後、如何様の御由緒御座候ふか、その段はしかと相知り難く候へども、私宅へ御養育成させらると申し上げ奉り候義に御座候ふ。その後、私宅に浪人を囲い候由をもって、北国勢聞き及び私宅を囲み候ふ風聞にて江州朝妻村の浪人島野嘉右衛門と申す者、矢文をもって知らさせその用意致し、ようよう御恙無く守護奉り候ふ。その節、嘉右衛門より射込み候ふ書簡只今に所持仕り罷り在り候ふ。
一 信長公江北において御馬寄せ相催させられ、そのみぎり、一豊様御若年にあらせられ候えども、御出馬遊ばさせ候折節、売馬出で申す由申し越し候につき、右御馬御引き寄せ仰せ付けさせられ右御馬寄せに御出馬あらせられ候その節、御母君様御出でに遊ばされ候ふ。黄金の御包み並びに御馬引き寄せ仰せ付けさせらる節の書簡只今に所持罷り在り候ふ。一豊様御出馬の條、信長公に始めて謁させられその後信長公に御勤仕あらせられ候ふ。段々御昇進遊ばされこの節に至りて江州にて1万石御領知遊ばせられ候ふ趣伝承仕り候ふ。先祖の者も御知行頂戴仕り、重く召仕えわせられその後、天正11年江州伊香郡の内、高月の郷にて地形70石並びに御蔵所にて大豆30石御加増仰せ付けられその節頂戴奉り候ふ一豊様の御直筆御墨付き、只今所持仕り候ふ。
一 一豊様御出馬の節、轡(くつわ)並びに十文字御鎗長刀拝領、只今所持仕り候ふ。
一 一豊様御刀長柄の鎗2筋拝領仕り、只今所持仕り候ふ。御家様御家中よりの書簡類、只今所持仕り候ふ。
御母君様御病気入りなされ御養生相叶わず葬り奉る。すなわちその所へ御宝塔建立奉り候ふ。
御母君様御法号私宅に尊敬仕り御香花備え奉り罷り在り候ふ。
御母君様御所持の御鏡並びに御道具類只今所持仕り候ふ。
一 一豊様掛川表御発国のみぎり、助市相果て倅幼年且病身にて止む事えず御供仕らず浪人仕り、そのまま当村に住居仕り数代実子相続仕り罷り在り候ふ。
以下、略・・・・
文政4年 巳3月 長野市右衛門
同 市郎
吉田関左衛門様