「濃飛の文化財」岐阜県文化財保護協会
 
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2003年度・第43号 発行平成16年3月10日)

山内一豊の妻 見性院のこと    郡上郡八幡町  佐藤とき子
           写真「山内一豊と妻の像」

1.山内一豊と妻の銅像    佐藤とき子「郡上八幡ふるさと探訪」講座、「見性院の謎を求めて」へ  

 写真の銅像は、八幡城本丸跡の一隅に建てられているもので「山内一豊とその夫人の像」である。観光客の皆さんが不思議そうな顔で「何で郡上八幡に一豊夫妻の銅像があるんだ?」と尋ねられる。無理もない話である。戦前の小学校の教科書には「賢夫人山内一豊の妻」なる一文が長い間載せられていて、辞書をひけば「夫人は近江の国、若宮女」と解説されていたのである。それがどうして郡上八幡なのか?これは明治の頃、研究不足のまま近江≠ニ断が下されてしまった結果であったのだ。その歴史の誤りを戦後、郡内外の多くの方々の努力により、ようやく正されつつある結果がこの銅像であることの概略を記したい。

 

2.古文書に不審=18代当主山内豊秋氏

 第2次世界大戦終了後、第18代山内家当主山内豊秋氏は、山内家の膨大な古文書の整理に取り掛かられた。研究調査を進められるうち、第1代山内一豊の奥方について大きな不審を抱かれたのであった。さらに以前から高知市にある山内宝物資料館の整理を行っておられた紋章学の権威沼田頼輔博士高知女子大名誉教授丸山和雄先生の研究調査結果もあり、郡上八幡との連絡が開始された。(追加:沼田氏の近江での研究

 高知方の不審とは、資料館の古文書の中から、一豊の奥方・見性院(けんしょういん)の記述が消えていること。それまで一豊の奥方とされていた近江の国の若宮まつは、実は一豊の家老(当時は中老)であった「五藤為重」の妻であることが、安芸市に現在も残る五藤家の城内にある墓で証明されたことであった。五藤家の御子孫がずっと祀っておられ、これは動かしがたい事実なのである。

 一方、連絡を受けた郡上には郡内各地に残る多くの「東家・遠藤家系図」に注目し、ひそかに研究を進めていた郷土史家たちがいた。八幡城主第1代遠藤盛数の娘、第2代城主遠藤慶隆妹が山内対馬守室との記述が多く残されていたからである。

 山内対馬守は、一豊のことであり、大正時代に発刊計画された「郡上郡史」にはこの一文が掲載されることになっていたのだった。しかし大正8年郡上八幡北町の大火による資料の焼失、監修者の移動などにより、この項は不運にもカットされてしまうという過去があったのだった。

 高知からの連絡、加えて当時の岐阜城館長の郷浩先生(県立図書館で「郡上古日記」を調査しておられた)の檄、郡上史家たちの熱意を受け、先ず当時編集中だった郡上郡「大和村史」が正式に烽火をあげた。

 

3.外記仲間(げき・なかま)と牛尾田文書のこと

国会図書館などに保管されていた古文書の中に「牛尾田文書」というのがある。これは近江のおまつ様が五藤家へ嫁入りの折、4人の従者が供をしたが、牛尾田九郎右衛門と同喜七郎の二人が国元の同じく牛尾田という人に出した手紙で、おまつ様と五藤家の御縁組が無事終わったという報告が記されているものである。

さらに、このおまつ様の父君は若宮左馬助といって浅井長政の家老の一人であったが、織田信長の浅井・朝倉攻めにより戦死。長政は左馬助の遺領の一部をおまつに与える安堵状を送っているが、その遺領は現在も「若宮外記仲間」という十数名の人によって守られ若宮の供養が行われている。この外記仲間の外記とは五藤家で多く用いられている名称なので、おまつ様と五藤家と若宮との関連が物語られているものと考えて全く無理はない。

 

4.高知県立図書館蔵「御侍中御先祖書」は語る

次に記した遠藤家系図(郡上には多く残るものの一つ)の終わりに書いてある遠藤三十郎は一豊夫人(法名・見性院)が亡くなられたすぐ後に土佐山内家に召抱えられるが、江戸で召抱えられる時の古文書に「御由緒をもって・・」と記されている。この御由緒≠ニは、三十郎と見性院は甥と叔母の間柄であることを示すものと思われ、さらにこの三十郎の子孫にあたる遠藤三作の差出系図(御家来衆が代替わりの折に殿様に差し出す系図のこと)には、「世禄五石五斗、御留守居組遠藤三作 桓武天皇末流千葉常胤六男東六郎大夫胤頼十一代孫、六郎左衛門尉盛数、美濃国郡上の領主遠藤但馬守慶隆弟助次郎慶胤男、先祖遠藤安右衛門亮胤本国美濃」と記され、その次に「六郎左衛門尉盛数女、慶隆・慶胤妹山内対馬守一豊公御室と家系に之有」と書かれている。高知城に残るこの差出系図と、郡上各地に残る東家系図・遠藤系図の記述はぴったり一致している。

 これを一番早く発見された丸山先生は「場所と時が大きく異なる二つの古文書が完全に一致した驚きは大きかった」と報告しておられる。しかもこの遠藤三作の子孫・遠藤春海氏は高知県南国市に5年前まで健在で、生き証人的存在であった。

 ここで重要なのは、系図が示すように遠藤氏の先祖は和歌の家、東家であるということ、はっきりと盛数女・遠藤慶隆妹が一豊公であると明記した書類が高知城へ差し出されているという二点である。

 

5.見性院の遺品が語るもの

 三作系図が示すように東家と遠藤家は本家・分家の間柄であり、見性院の母・友順は東(とう)家13代東常慶の姫である。

元和3年(1617)重態となられた見性院は、赤児から手もとで育てられ妙心寺へ入れておられた湘南和尚に形見を渡され、土佐二代藩主忠義公へ届けるよう命ぜられた。

 東下野守常縁筆の古今和歌集、冷泉大納言筆の同集、徒然草、料紙箱などが含まれていた。これらが元禄13年徳川家へ献上されたことが山内家記や徳川実記に記されている。さらに山内家には現在も「古今和歌集巻第二十」高野切本(国宝)が伝えられているが「これは古今伝授の東家以外、流入ルートは考えられない」と豊秋氏は生前に何度も語られた。

 

6.おわりに

 見性院の母・友順は、見性院が山内家へ入られたとき東家以来の供人である「埴生太郎左衛門高照」と共に教如上人の教化を受け郡上の戸谷坊(乗性寺=現美並村)へ入られるが、戸谷坊は郡上東家1代目の東胤行が入られたゆかりの寺である。

 さらに教如上人は、1580年石山合戦終了後、信長の追跡を逃れてこの乗性寺へ一時入られた。のち安養寺などの手引きにより、郡上西気良の山中(現明宝村)に4年近く隠れられた事実も、東家や遠藤家、友順尼や見性院と無縁のことではないと思われる。

また見性院の兄慶隆の法名は「深心院殿乗性旦斎」で寺は乗性寺と性の字が共通しているのも偶然ではないとの説も強く出ている。以上山内一豊室見性院につき、高知県側の研究者、郡上側の郷土史家の多くの人たちの説のほんの一部をここに紹介し、郡上八幡に銅像が建てられている理由説明としたわけである。

 最後に誠に残念なことに、去る9月29日、山内家十八代御当主・山内豊秋様が逝去された。お殿様は見性院の出自につき常に気をかけられ、弟静材氏を伴ったりして前後8回余郡上へ足をお運び下さり、慈恩禅寺調査にも加わって下さった。

 心から御冥福をお祈りし、続いて正しい史実を求めて進むことを誓う次第である。

 

       紙面の都合で、母・友順尼の永井隼人(関城主)への再婚と流浪に関する項目は略した。近江説の生まれる重要な要素の一つである。
母・友順尼の永井隼人(関城主)への再婚と流浪(濃飛文化財44号・2004年)へ

         2005年4月11日 ホームページに  川上朝史(2020年7月5日 体裁更新)   


    ※  「千代と一豊との結婚時期」について高橋教雄論文(郡上市・八幡町文化財保護協会報2006年)に

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