昨年、当誌に「見性院の出自」に関する一文を掲載させていただいた。しかし紙数の関係で重要な項目である、その母の史実を省かざるを得なかったのであったが、今年度に入りしばらくして高知山内家が伝来の家宝を高知市に寄贈されることになり、その中の最高位にあった「国宝・古今和歌集巻二十(高野切)」は高知県が購入とのニュースが流れた。
 この「国宝・高野切」については、一昨年逝去された十八代山内豊秋様が郡上へおいで下さった節にも話題になったことがあり、郡上東家のかかわりが考えられることから、再度「見性院とその母」のことを記させていただきたいと思う。

 @ 郡上東家(ぐじょう・とうけ)のこと (写真下は、国史跡指定:東家居館跡庭園:郡上市)
    
     
  
  鎌倉時代房総の雄・千葉常胤の第六子胤頼は、東庄を領し東氏となる。2代目の重胤は源実朝の愛臣であり、共に藤原定家の弟子であった。3代目胤行は承久の乱後、この郡上の地「山田庄」を加領された。彼の妻は藤原定家の孫娘(為家の子)であったと伝えている。胤行は年をとってから郡上へ来たが、現在の美並町苅安、戸谷川のほとりに戸谷坊をつくって住む。彼が重病になったときに鎌倉将軍から和歌と手紙が送られ、胤行も返歌と手紙を出して別れをしている。
 この和歌の家「東氏」は室町時代郡上を統治するが、その一族には中国に渡り、帰国後京都五山の住持をつとめた人も多く、また十一代の東常縁は宗祇に古今伝授を行ったことで有名である。この和歌の名家十三代目が東常慶という人である。(※この人の娘が友順尼)
 この東常慶の代、天文9年(1540)越前衆(朝倉)の侵入を受け、山田庄の牧の篠脇城や城下が焼かれてしまい、八幡の赤谷山へ城を移した。(この山をのち東殿山と呼ぶ)
 
 A 東家と遠藤家 
 東家と、ここに登場する遠藤家は本家と分家の間柄であるが、東家13代東常慶はこの遠藤盛数を特に見込んで自分の娘と結婚させた。東常慶は盛数に東を名乗ることを望んだが盛数が潔しとせず遠藤を通したと伝えられている。
 東家が東殿山に移ってから18年後の永禄2年(1559)東常慶の一子が盛数の兄を殺すという大事件により、両者が戦い、和歌の名門東家に代わり遠藤盛数が八幡山に城を築いた。しかし3年後の1562年に盛数が病死。長男慶隆は13歳、弟2人に女子2人が残された。

 B 盛数未亡人の再婚 
 家来たちは郡上を守るため奥方に有力な武将への再婚を願い出た。相手は関城主の永井隼人(※岐阜城主の斎藤龍興の叔父)。このとき奥方は自分が誇り高い東家の娘であるとの自負から、再婚を強く拒まれたと伝えられている。しかし隼人も奥方を病気で失っており、再婚を望まれ遂に実現したのであった。この再婚が「人質」であったとの説を言う人もあるが、東氏の研究者であった郡上大和町の故野田直治氏は何回も「奥方の気性から人質説は妥当ではない」と話しておられた。
 前回も記したように、この再婚にあたり、東家以来の奥方の付人「埴生(はぶ)太郎左衛門高照」も同道しているが、この埴生家というのは、東氏が千葉から郡上入りしたとき、東家の氏神の妙見菩薩を奉戴してきた家柄である。もう1軒同職の埴生家があるが、こちらは現在も大和町栗巣におられる。
 この再婚のとき、盛数との間の2人の姫は母と共に行かれるが、下の姫はまだ3歳ぐらいであった。東家・遠藤家系図が郡上の寺や、ゆかりの家々に残っているが、この姫の下に「山内対馬守様室」と殆どの系図に記されている。中には上の娘のところに書かれているのも少し存在するが、このことは前の文(前号)で記した通りである。永井隼人の屋敷は、井の口(岐阜市)にあり、母と2人の姫はそこに住んだ。

 C 安東家・山内家・不破家・竹中家・遠藤家・東家
 永禄7年(1564)近江に近い岩手城の竹中半兵衛が斎藤龍興に反目して稲葉城(のち岐阜城)を乗っ取るという事件が起きた。竹中半兵衛の妻は本巣北方の安東伊賀守守就の娘なので、安東一族は半兵衛に呼応して、山の下で鬨(とき)の声を出し大軍に見せかけたとの記録が残っている。この安東家へは以前東常縁の兄・氏世が婿入りしており、東家・遠藤家にとって大切な親戚である。郡上大和町牧の東氏居館跡から「進上あんとう」という木簡が発掘されている。この事件の折、母と2人の娘の所へ長兄の遠藤慶隆が遊びに来ていたが、岐阜城下が騒がしくなったので、安東家の勢力下にある山県郡深瀬村へ揃って避難したという記録が残っている。
 また安東家へは山内一豊の姉・通姫が嫁入りしているし、安東伊賀守の娘(※竹中半兵衛妻の妹)を遠藤慶隆が妻にしている。さらに不破家ともそれぞれ縁を持っており、近江に近い不破家へは親戚の出入りが実に多かった記録がある。

 D 関城(安桜城・あさくらじょう)の落城と近江への逃避行

        
                (写真は安桜山から眺めた関市内)
 永禄8年(1565)9月、信長が関の安桜城(あざくらじょう)攻め落としたので永井隼人は浅井長政を頼って近江へ行き、永禄9年浅井の城へ入った。2人の娘とその母は不破家に入った模様である。この年、2人の姫の兄・遠藤慶隆に安東家から嫁しておられた奥方が、御産の後、亡くなられた。このとき生まれた姫は後に飛騨の金森可重に嫁し、長男は金森宗和という。宗和流お茶の指南として山内家へ入った人である。

 E 姉川の合戦・小牧長久手戦や佐々成政攻めの陣立て表 
 元亀元年(1570)、信長の浅井・朝倉攻めが開始され、山内一豊(伊右衛門)や遠藤慶隆(左馬助)をはじめその親戚関係者が同一陣中に組み込まれた陣立て表が残されている。特に最近佐々成政攻めの秀吉の朱印状の現物も公表され、親戚で固めた当時の戦いの様子がよくわかる。天正元年(1573)永井隼人が討ち死に、さらにはこの頃、山内一豊の結婚が行われていることも類推できる。もちろん相手は遠藤盛数の末の娘(見性院)である。
              
               (越中先陣遣覚=羽柴秀吉陣立て朱印状「長浜城歴史博物館」蔵)
               (3番グループに山内一豊・遠藤慶隆(千代の兄)・遠藤胤基(千
代の従兄)・佐藤秀方(千代の兄嫁の兄弟)がいる)
 F 石山合戦と教如と母友順尼 
 一番下の姫を嫁がせた母は、付人の埴生太郎左衛門と共に故郷郡上の東家の菩提寺戸谷坊へ入られた。この頃、1570年から10年間続いた石山合戦が天皇の言葉により和解、父顕如はすぐ受け入れられたが、長男教如は自分に相談なく事が運ばれた裏に、継母の画策のあったことを知り、絶対従わなかった。
 信長の厳しい「教如を討て」の命を逃れ、遂に郡上の戸谷坊へ立寄られるに至り、姫の母と埴生に会われたのであった。戸谷坊=現乗性寺の過去帳に照用院釈尼友順なる項目があり、この間の事柄が記されている。また浄土真宗本願寺の鷺森旧事記にも教如の郡上落ちと隠棲は詳しく記述され郡上明宝西気良に隠棲地とその世話をした八代八右衛門の墓も残されている。
 遠藤盛数未亡人は、子どもを守るため永井隼人への再婚、関安桜落城による流浪と、2人の姫と苦労をされたが、ようやく姫たちを結婚させ、祖先の菩提寺へ入ることができた。
 たまたま出会われた教如上人から「照用院釈友順」と法名を戴き、長い間の付人埴生太郎左衛門高照も「西教坊照山」と法名を得、天正10年(1582)に再録されているが、この事を明記し良心的である。このため天正10年が永禄10年と誤記された場所もあるが全体に正確である。

 G おわりに 
 友順尼は見性院を結婚させるまで共に行動しているが、その間、東家の和歌の道を指導したことが見性院の詠んだ和歌から感じられると研究者が発表しておられる。また冒頭に申し述べた「古今和歌集」や山内家が徳川将軍綱吉のとき幕府に献上した東常縁直筆の古今和歌集(前回記述)などは、東家の東常慶の姫である友順尼と見性院のルートしか考えられず、他から山内家へ入ったという記録も見当たらないと、十八代御当主の故山内豊秋さまは何回もお話になっておられた。
 10年前、郡上八幡が第3回目の「一豊様と千代様サミット」を実施したとき、「国宝の高野切を貸して上げる」と言われた豊秋様の東家に対する思い入れの強さに驚き、国宝の重さに恐れをなして御辞退申し上げた事も、今は懐かしい思い出となってしまった。
                                2005年3月発行
 
 筆者紹介:佐藤とき子(郡上市文化財審議委員。郡上市文化財保護協議会会長。
    郡上一揆の会副会長。山内一豊夫人顕彰会副会長。大正13年生。郡上市八幡町在住。)

「濃飛の文化財」2003年第43号  山内一豊の妻・見性院のこと(上)へ

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【岐阜県文化財保護協会「濃飛の文化財」2004・第44号】
再び、
山内一豊の妻=見性院の出自(中)
       
─母・友順尼からさぐる─
                 
郡上市八幡町 佐藤とき子