1.前がき
「三度繰り返すは、愚者のなすこと」というが、来年度NHK大河ドラマ「功名が辻」のロケ酣(たけなわ)の現在、主人公山内一豊夫人見性院の出生地は郡上でありながら、種々の原因により学説になってないことに対し、
一昨年(2003・43号)、
昨年(2004・44号)に続き、敢えて三度目の稿を送らせていただくことを、お許し願いたい。一昨年は『見性院近江説』の誤りを、昨年は『見性院の母友順尼から」郡上説の正しさを述べたが、今年は『宗和流茶匠、金森宗和とその母室町殿と見性院の関係」から説明させていただきたいと思う。
参考に示した系図と比較しながら読んで下されば分かり易いのではなかろうか。
(慈恩禅寺HPへ)
2.金森宗和と母室町殿のこと
見性院の兄遠藤慶隆の最初の奥方は、本巣北方の安東家から来ておられた。これは昨年の本稿に述べた通り、
安東伊賀守守就(もりなり)の娘で、姉が竹中半兵衛へ、妹が慶隆へ嫁した。(
『一豊公紀」記載)
一年後、慶隆夫妻に女の子が生まれるが、お産の後すぐ奥方は死去された。この時の女の子は遠藤家で育ち、のち金森可重(ありしげ)に嫁がれる。このころ金森家は越前(今の福井県)大野城に居住していたが、可重の長男として宗和(重近)は誕生した。
天正15年(1587)頃、飛騨高山へ金森氏は移るが、宗和は少年時代を飛騨古川で過ごしたと言われている。文禄(ぶんろく)・慶長と世は戦いの連続であるが、この間(かん)に宗和とその母は可重と離縁し京都に住むことになる。
離縁の理由は今回は詮索しないが、武家の長男が武を好まず、茶の道などに傾倒していたことと無縁ではないであろう。母を室町殿と呼ぶようになったのは、その住居の場所名による。しかし金森家の記録によると、室町殿に対しては、一代「お化粧料」が送られていた。宗和母子は実に仲の好い母子で心おきなく優雅の道に進むことができた。
3.見性院も京都へ
慶長10年(1605)、山内一豊が61歳で死去されるや一周忌も待たず見性院が京都へ移り住んでしまわれた。これは幼くしてなくされた「よね姫」の墓が京都妙心寺にあったこと、兄・遠藤慶隆の娘である室町殿は見性院の姪にあたり、宗和も共になつかしい肉親であること、それに加えて兄慶隆自身が、妙心寺の塔頭「智勝院」へ出入りしていたことなどが考えられる。そして1606年には智勝院の第一位におられた半山和尚を郡上へ迎え、「慈恩護国禅寺」が創建されるに至った。
半山和尚が妙心寺の円明国師第一位の法子のため、郡上へ来られるような方ではない。この陰に見性院の願いもあったのではないか?さらに宗和は高知城の茶の指南役となり、また、郡上に創建された慈恩寺内に作られた「?てっ草園」という庭(郡上市文化財指定)は「宗和好みの庭」と伝えられており、目に見えぬ血縁の糸を感ずる次第である。また、この慈恩寺には東家(遠藤家の本家)や遠藤家の系図が多く納められ、さらに遠藤慶隆の二番目の奥方(智勝院殿惟芳宗徳大姉・ちしょういんいほうそうとくだいし)の霊廟など三棟の霊廟が祀られている。また東家の古今伝授に関連する歌集なども納められている。
4.宗和と京都公家文化と古今伝授とのかかわり
──京都御室仁和寺(おむろにんなじ)を中心としたサロン──
今回の本論はここからである。宗和は武家の出身である。当時の社会の構成は武家衆の宗和が突然京に出て、いかに茶という媒介物があったにしても、異質の公家衆(くげしゅう)の中に入り込んでいくのは困難なことである。それが、すんなりと同化して行ったらしいその力は何であったか。
当時の京都公家文化のパトロンは後水尾天皇(1596〜1680)で在位は1611〜1629である。後水尾は幕府の公家圧迫に反発、明正天皇に譲位後51年間も院政を行った人である。彼は後陽成(ごようぜい)天皇の三番目の皇子である。後陽成天皇は、三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学の祖と称された人である。有名な話として、関が原の合戦で三条西公枝(きんえだ)に古今伝授を受けていた細川幽斎(ゆうさい)が石田三成に捕らえられ、幽閉されてしまった時、後陽成は最後の古今伝授者が亡くなることを心配して、命令をもって幽斎を解除させた。幽斎はその後、皇室内へ伝授して行ったので御所伝授といわれるようになった。この
古今伝授こそ郡上東氏の常縁(つねより)が飯尾宗祇に行ったものであることは衆知の通りである。
東家の分家郡上遠藤が大切に受け継いでいる古今和歌集に関する研究は、東氏出身の母を持つ見性院はもちろん、室町殿も宗和も例外ではない。御室御所と呼ばれる仁和寺(にんなじ)内へも、御室窯の人々の中へも、後水尾の造った修学院離宮へも、公家筆頭の近衛(このえ)家へも、東家以来の「古今伝授」という水道(みずみち)がある以上、他者より容易に近づいていくことができ、いつの間にか指導的立場に立っていたということであろう。
宗和の死によって「仁清」が出家したとまで伝えられる事実は、宗和の京における姿をうかがう一つであるが。「わび・さび」に徹し遂に秀吉の怒りに触れ自刃した「千利休」とはまた異なる感覚で活躍していった。
郡上八幡城山(しろやま)三の丸に立つ安養寺は蓮如上人から寺号を与えられた古寺(こじ)であるが、14代宣了は金森宗和と義兄弟の仲で、金森家と安養寺が親しく交際しているようすが宝物の中にもうかがえる。その中に、東常縁直筆の色紙がある。「山桜 袖ににほひや うつるとて 花のしづくに たちぞぬれぬる 常縁」とあり、これは宗和の送り状が付けられているとのことである。色紙だけは安養寺宝物殿で見たが、筆者はまだその送り状を見ていないし、記録も確かめていないのでこれ以上のことは述べられない。想像であるが、宗和が京都あたりで東常縁直筆の和歌を見つけ、常縁の古里である郡上へ送ってきたものではないかと考えている。
さらに慈恩寺には、後西(ごさい)天皇(後水尾天皇第8皇子)の『震翰古歌御懐紙』「霜まよふ 空にしほれし かりかねの かへるつはさに 春雨そふる」が宝物になっている。後西天皇は歌道・茶道を非常に好まれ、特に金森宗和との接点が多かったと伝えられている。
また、古今伝授にとって忘れられない後陽成天皇の皇子が、近衛家や一条家へ入っておられ、共に宗和流茶道を学ばれ愛されたことなどを合せ考えると、その底流に郡上東氏の「古今伝授」の赤い糸が鮮やかに見えてくるのである。
5.むすび
司馬遼太郎氏が『功名が辻』を書かれたのは昭和38年、郡上が官本に見性院郡上説を正式に発表する以前である。司馬氏亡き現在、原作不変という司馬財団の鉄則の前に、その後の歴史家の研究の数々は今回は受け入れられなかった。
過去の歴史家の資料の見落とし、新発見の資料の数々も話題になり、新刊本も出されたが、放送には生きなかった。
それにしても山内家から提出された『寛政重修(かんせいちょうしゅう)諸家譜』の「室は若宮喜助友興(ともおき)が女」の十文字が、いかに多くの人々を迷わせたか。遠藤家提出のものが終始一貫しており、裏付けも確実であるだけに心残りが多い。
見性院様に男の実子があって、後を継いでおられたならば、決してこのようなことは生じなかったであろうと、研究者たちは残念がっている。寛政の諸家譜が書かれたのは、見性院の死後195年も後なのである。郡上には死後49年後の寛文年間の系図が残されている。
筆者紹介:佐藤とき子(郡上市文化財審議委員。郡上市文化財保護協議会会長。 郡上一揆の会副会長。山内一豊夫人顕彰会副会長。大正13年4月生。郡上市八幡町在住。)
「濃飛の文化財」2003年第43号 山内一豊の妻・見性院のこと(上)
「濃飛の文化財」2004年第44号 山内一豊の妻・見性院のこと(中) 見性院の母・友順尼
(山内一豊の妻)
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