山内一豊夫人=見性院の出生地に関する説について(郡上出生地説の検証) ↓下線部(リンク)をクリックしてください。 | |||
項目:出生地説内容 | 裏づけの資料等の検証 | 検証の結果 | |
0 | 系図について(1) 「寛永諸家系図伝」 |
寛永年間(1624〜1644)の系図「寛永諸家系図伝」。 寛永18年(1641)に始まり20年(1643)全巻完成。186冊 |
見性院死後27年目。 山内・遠藤とも記載なし |
系図について(2) 「東家並遠藤家聞書」(白鳥町市村静子) |
※当初、「平氏東氏系図」(寛文6年=1666書写としましたが訂正します。同家の歌書書写が1666年だったからです。(「長滝寺文書」)遠藤慶隆の2代後の遠藤常友の代。 遠藤盛数の女=山内対馬守室の記載あり。 |
※当初の見性院死後49年、兄・遠藤慶隆死後34年目を削除します。少なくも慶隆死後61年は経って書写しています。 | |
系図について(3) 「寛政重修諸家譜」 |
寛政9年から文化9年(1799〜1812)に作られた。 遠藤盛数の女=山内対馬守室の記載あり。 |
見性院死後、195年後。 山内家にも、初めて若宮女記載あり。 |
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1 | 系図について 郡上遠藤家系図 1.東家並遠藤家聞書(白鳥町市村静子) 2.経聞坊文書(白鳥町長瀧寺) 3.遠藤家御先祖書(八幡町慈恩寺) 4.東家遠藤家記 (八幡町慈恩寺) 5.東家遠藤家記録(八幡町慈恩寺) 6.東家遠藤家書記(八幡町慈恩寺) 7.郡上東家由緒書(美並町古川藤蔵家) 8.畑佐家系図(八幡町畑佐馨家) 9.郡上古日記(県立岐阜図書館) 10.平朝臣遠藤(内閣文庫、系図纂要15) 11.七親等以前親族記録(東京遠藤幸威) 12.寛政重修諸家譜(徳川幕府編纂) 13.御侍中先祖系図帖(高知県立図書館) |
郡上「東家並遠藤家聞書」(白鳥町市村静子)の中の「平氏東氏系図」(白鳥町史史料編)
9.郡上古日記(県立岐阜図書館) は岐阜城館長・郷浩氏調べ 13.御侍中先祖系図帖(高知県立図書館) は高知女子大名誉教授・丸山和雄氏調べ |
系図によって姉妹の順序や数(2または3人)が多少違いがあるが、初代八幡城主・遠藤盛数の娘が山内一豊の妻になったことは全て共通している。 ことに、高知県からの系図が遠く離れた郡上の系図と一致したのは驚きであった。 |
2 | 山内家と遠藤家のつながりの証明 「御侍中先祖系図帖」(高知県立図書館) 高知女子大名誉教授・丸山和雄氏調べ |
千代の兄・遠藤慶胤の末子の遠藤三十郎が見性院死去の翌月に土佐藩に召抱えれれた。御由緒を以てとわざわざ書いてある。 | 御由緒とは、三十郎が見性院にとって甥に当ることをさしている。 |
3 | 生き証人・遠藤春海氏 高知女子大名誉教授・丸山和雄氏調べ |
南国市に遠藤三十郎の子孫が住んでおられた。父の代の火事で焼ける前は史料もあった。 | 山内一豊の妻の末裔であると知っておられた。 |
4 | 山内家と遠藤家のつながりの証明 「秀吉陣立朱印状」(長浜城歴史博物館) 越中先陣遣覚(実物の発見) |
天正13年7月17日付け富山の佐々成政攻めに、3番山内伊右衛門(一豊)が700人、佐藤六左衛門(妻は遠藤大隅女・娘は遠藤慶胤妻)200人、遠藤大隅守(木越城主・胤基)200人、遠藤左馬助(八幡城主・慶隆、千代兄)200人、とある。 ※その後の調べで、佐藤六左衛門は息子の六左衛門と判明。 |
中世での戦では、戦陣を組むのに裏切りを防ぐため親戚はまとめる事が多いという。山内・佐藤・両遠藤の固い姻戚関係を示す史料である。 |
5 | 山内家と遠藤家のつながりの証明 「秀吉陣立朱印状」(大日本史料) 小牧長久手戦陣立表 |
天正12年8月19日付け秀吉陣営の左翼2番手に日根野備中・常陸1500名、佐藤六左衛門400名、遠藤大隅守・左馬助600名、山内伊右衛門700名、合計3200名とある。 | 東氏遠藤氏系図では日根野氏も姻戚関係にあり、これまた山内・遠藤の固い姻戚関係を示すものである。 |
6 | 安東家(北方) 山内と遠藤を結ぶ一族 |
安東家は、西美濃3人衆の有力一族で,東常縁の兄が婿入りしていた(蔭涼軒日録)。山内家より一豊の姉・通姫が嫁入りしている。千代の兄・八幡2代城主慶隆が安東家から娘を妻にしている(安東家系図・東家遠藤家系図)。安東家の子孫は山内家家臣として土佐に移る。(山内家記録) | 慶隆妻の姉は不破の竹中半兵衛に嫁ぐ。不破氏は半兵衛の屋敷跡のある不破郡垂井の宮の宮司をしていた。永井隼人の関城落城後、少女時代の見性院は安東・竹中・不破の親戚を頼って母と暮らしていたと考えられる。安東家・不破家の系図に娘として書き込まれているのはこのためである。 |
7 | 見性院の遺品 古今和歌集と徒然草 山内家に伝わった古今和歌集は4種 |
1.宗祇に古今伝授をした東常縁直筆の古今和歌集が徳川5代将軍綱吉生母の桂昌院に献上(徳川実記)2.冷泉大納言為秀卿筆の同集を将軍正室に献上(徳川実記)3.国宝「古今和歌集・巻20」(現在まで山内家蔵ー今年高知県が7億円で購入)平成16年9月。 | 見性院が形見として湘南和尚を通じて2代藩主忠義に渡したことが記録にある。(忠義公紀) 山内家文書に「古今和歌集」はこの記録以外には出てこない。 |
8 | 見性院の母・友順尼のこと 見性院の母は和歌名門・東家直系の娘 |
東家13代東常慶の娘で初代八幡城主となる遠藤盛数と結婚。1562年盛数死去後、遠藤家を守るため関城主・永井隼人と再婚(千代を連れて)。「東家遠藤氏記」他 | 母は『古今伝授の名家』東氏の娘である。娘が嫁ぐとき、和歌の名門の東家の血筋である事を証明するため、伝来の家宝「古今和歌集」を娘に渡したと言える。 |
9 | 本願寺・教如上人と見性院の母・その従者 | 教如上人、郡上へ(石山合戦1580年後)美並町苅安の乗性寺へ入り見性院母に「照用院釈友順」と法号を与える。東家以来の付け人・埴生太郎左衛門には「西教坊照山」と法名を与えた。母は天正10年死去。(1582)この乗性寺は郡上東家初代東胤行が戸谷坊として開基。代々東家遠藤家の菩提寺である。 |
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