←前へもどる
次へすすむ⇒
22 見性院の最期とお形見 見性院(けんしょういん)様は、晩年は京都で母親・友順尼(ゆうじゅんに)から送られた「古今(こきん)和歌集」「徒然草(つれづれぐさ)」などを机上に置き(とう)家伝来の和歌の勉強とお墓参りに明け暮れておられました。 1617年(元和(げんな)3年)、見性院(けんしょういん)様はご病気にかかられました。重態になられたとき、枕元に湘南和尚(しょうなんおしょう)を呼ばれ、見性院(けんしょういん)様お大切の品として、料紙箱・東常縁(とうのつねより)直筆(じきひつ)などの)「古今(こきん)和歌集」徒然草(つれづれぐさ)」などをお形見として2代目藩主・山内忠義公へ渡してくれるよう固く言いつけられました。山内家に渡されたこのお形見は、後に幕府に献上されたことが「徳川実紀」「寛政重修諸家譜」に記されております。(下へつづく)  「寛政重修諸家譜」
 見性院がお亡くなりになったすぐ後のこと、見性院の2番目の兄・遠藤慶胤の末子、遠藤三十郎を江戸で土佐藩に召抱えられました。この三十郎の子孫・遠藤三作の土佐藩への差し出し系図が当慈恩寺に伝わる東家遠藤家系図とぴったり一致したことが判ったのは今から20数年前のことでした。また、その御子孫の遠藤春海氏が土佐の南国市にてご存命で、遠藤家の歴史を伝えておられたという事実を知った時は、夢のような喜びでありました。
見性院の最期
湘南和尚
東常縁直筆「古今和歌集」形見に
古今和歌集・徒然草
見性院物語

その二十二
トップへ