教如上人の隠れ場
10年間に及んだ石山合戦後、信長の追っ手から逃れるため、安養寺などの手引きもあって、美並町の乗性寺に匿われた教如上人は、更に山奥で前の郡上郡奥明方村西気良の山中で3年間を隠れ住まわれたました。
山内一豊の妻・見性院の母・友順尼が教如上人と会い、得度を受けたことなど、目にみえぬ縁の糸を思わずにはいられません。この時の教如の住まれた住居跡は明方の山中に「教如屋敷」としてひっそりと残っています。手引きし世話をした八代八右衛門の薄い岩の板碑もあります。見晴らしのきく高い場所で、手水鉢が430年前を甦らせます。
教如上人屋敷跡
2004.8.13 郡上市明宝気良
世話をした八代八右衛門の板碑
数十メートル離れた道端にひっそりと。
教如上人が使った手水鉢。
石山戦争ノ時織田信長ノ害ヲ避ケ
八代八右ヱ門ヲ便リテ来リ玉ヒ此処
ニ庵ヲ結ビ三年御在住ノ旧跡ナリ
↑手水鉢
刻まれた碑文