山内一豊の妻は郡上の生まれ (2004年「八幡町文化財保護協会報」第29号より)
 山内一豊と遠藤慶隆のつながり(下線のある黄文字などはクリックしてください)
 
 郡上市には八幡町の
慈恩禅寺ほかいくつかの系図(長滝寺の経文坊文書)に「八幡城主・遠藤慶隆の妹が(土佐初代藩主)山内対馬守(一豊)の妻となった」との記録がある。郡上以外にも、郷浩岐阜城館長による県立岐阜図書館蔵「郡上古日記」が、そして丸山和雄高知県立女子大学名誉教授により見つけられた高知県立図書館蔵「御侍中先祖系図帖」(遠藤慶隆の甥・遠藤三十郎の子孫の差出系図)が出てきた。

系図以外に、遠藤慶隆と山内一豊を結ぶ史料として、小牧長久手合戦の秀吉の陣立てがあり、山内伊右衛門(一豊)・佐藤六左衛門・遠藤大隈守(胤基)・遠藤左馬助(慶隆)が一団の親戚グループだったことが「大和村史」に載った。

 他にも、郡上の「東家・遠藤氏記」の「金森飛州責め両遠藤加勢事」に金森可重(ありしげ)方に遠藤・日根野・山内・他多数の名が出てくる。高知県立市民図書館「修史余禄」の中の深尾主水の覚えに佐藤六左衛門・遠藤大隈守・遠藤但馬(慶隆)が出てきて、慶隆が遠藤三十郎(土佐藩士)の伯父と書いてあることなども傍証として有力なものであった。

一方、従来の近江説の若宮氏女は山内一豊の中老(注)となる五藤為重と結婚したことが、五藤為重妻若宮氏墓牛尾田文書(従者の牛尾田が若宮娘は五藤へ嫁入りと記す)・浅井長政安堵状より明らかにされた。(注:五藤家は為重の子の代より家老職となったと2006年10月に渡部淳・土佐山内家宝物資料館長から御教示いただいた。)
 
 この時点で、既に郡上の研究者たちは山内一豊の妻郡上出生説を確信して山内一豊夫人顕彰会を結成し城山に銅像を作る活動を始めだした。
 
 その後、若宮娘説には近江で一豊夫人とその父・若宮氏を顕彰する「若宮外記仲間」「外記」が家老(注)・五藤家に由来することが新たにわかるなど、否定的事実がまた明らかになってきた。(:五藤家は当時は「中老」で、その次の世代より家老になったと山内家宝物資料館長の渡辺淳氏より教えていただきました。 2006年10月1日:川上)

  新史料の出現!「羽柴秀吉陣立て朱印状 (2006年9月,新史料また見つかる富山県埴生護国八幡宮

 しかし上記の「小牧長久手合戦の陣立て」以外に直接に一豊と慶隆が名を連ねるものは無く、また実物を見たことはなかった。

 そこに、一つ新しく一豊と慶隆が直接名を連ねる貴重な実物史料が見つかったので紹介したい。これは、長浜城歴史博物館蔵「羽柴秀吉陣立朱印状」といい、天正13年7月17日付けの秀吉が佐々成政を攻めた時の陣立朱印状である。土佐史談会を通じ郡上が知ったものである。内容は前述の小牧長久手合戦と似ている。すなわち、戦をする一番から五番までのグループに船手衆を加えた五万七千三百名もの秀吉大軍の中に、三番として「木村隼人殿 三千、堀尾毛介殿 千、山内伊右衛門尉殿 七百佐藤六左衛門尉殿 二百、遠藤大隈守殿 二百、遠藤左馬助殿 二百」の名がある。より分かりやすく書けば、山内伊右衛門は一豊千代の夫)・佐藤六左衛門は妻を大和町の木越遠藤から娶り、娘を遠藤慶胤千代の次兄)へ嫁せた遠藤家の大親戚、遠藤大隈守は木越城主の遠藤胤基千代の従兄)・遠藤左馬助は慶隆千代の長兄)となり、ぐっと一豊さんが身近なものに感じられよう。中世の歴史研究家の権威・林春樹氏によれば、戦のときは裏切りのなきよう身近なものをグループに寄せることが通例であるという。理に合ったことである。この史料は、長浜城歴史博物館の史料庫に眠っているが昨年(2003年)長浜でのサミットのとき城まで行き写真を撮った。(写真)真近に肉筆の古文書で伊右衛門・左馬助の文字を見つけた喜びはこの上ない。

なお一豊の前にいる堀尾毛介は、愛知県大口町から出た堀尾茂助(吉晴)のことで関が原合戦前の掛川城を家康に差出し忠誠を誓うアイデアを一豊に話した堀尾忠氏(浜松城)の父親である。

この大軍の前に佐々成政は戦わずして降伏している。

   山内家と国宝の「古今和歌集」

もう一つ、千代の郡上出生と絡んだ話を紹介しよう。
今年九月、高知県が山内家の国宝「古今和歌集」(高野切本・巻第二十)を7億円で購入することを決めた。他に時価10数億円するといわれる山内家の家宝3万6千点は無償ですべて高知県に寄贈された。

この国宝の「高野切(ぎれ)」の他、山内家には東常縁筆の「古今和歌集」冷泉大納言為秀卿筆の「古今和歌集」も伝わっていた。これら超一級の「古今和歌集」はどのようにして山内家に伝わったのであろうか。膨大な山内家の史料の中に一ヵ所だけそれに関する記録がある。それは二代忠義公紀の中の、見性院が死ぬ間際に残した記録である。「古今和歌集」を所持し、形見に二代目藩主・忠義に渡したことが知られる。
(1)「元和三年(1617)見性院様御病気御大切、料紙箱・古今和歌集・徒然草・けったんの不□こ(文箱)、御形見として忠義公へこれを進む。」「御記録」

この「古今和歌集」と後に出て来るいくつかの「古今和歌集」が見性院によってもたらされた根拠はあるのだろうかを考えたい。

東家歴代城主が勅撰和歌集に入撰
 見性院は遠藤盛数と東常慶の娘との間に生まれた子供であるが、東常慶は和歌で名高い東家の13代城主である。
 東家は関東より初めて郡上へ来た3代・東胤行が藤原定家の孫娘と結婚し勅撰和歌集には10集に22首が撰ばれているのを先頭に、4代・東行氏は7集に22首、5代・東時常は3集に4首、6代・東氏村は5集に10首、7代・東常顕は4集に7首、そして8代・東師氏、9代・東益之、10代・東氏数と、東家歴代城主が二条家の勅撰和歌集にもれなく入っている。そして11代が東常縁であり宗祇に古今伝授をした[古今和歌集」研究の第一人者である。彼の直筆の「古今和歌集」が山内家に伝わり将軍に献上されているのである。その二代後が東常慶、すなわち見性院の祖父である。そして、歴史は悲しいもので東常慶は自分の娘婿・遠藤盛数に亡ぼされるのである。

近年、郡上市大和町から東家居館跡(国指定名勝)が発掘され、そこからは中国からの陶磁器なども出てきており、東家は京都五山文学を担う一族でもあり、九代益之の兄弟や子供たちは建仁寺・南禅寺・天龍寺の住持となっている。

こうしてみれば、これら見性院の「古今和歌集」がこの東常慶の娘である母を通じて山内家へ伝わったと考えるのが最も自然でなかろうか。国宝鑑定人によれば山内家の国宝「古今和歌集」巻二十(高野切れ)は完全な巻物として残っており、他の巻と違って黒ずんでおり大分読み込まれていると思われると書いてあった(高知新聞)。興味深さを覚える思いである。

見性院が亡くなる直前になって、初めて身分を明かすものを甥(一豊弟の康豊の子)の忠義公に送ったのだろうか。
再来年の大河ドラマでは原作に忠実にということでこれらは出ないようであり誠に残念である。
ただ、見事に覆った見性院=若宮氏女でドラマを作ることは、NHKと故司馬遼太郎氏のためにも控えてほしいと願うものである。

  


資料:
元禄十三年(1700)十一月十五日、「松平民部大輔豊房(山内氏松平姓を賜う)襲封を謝して、備前近景の太刀、銀五百枚、綿三百杷献じ、又亡父土佐守豊昌(同年9月14日卒)遺物として、粟田口国吉のさしぞえ、茶入(文琳)を奉り、御台所(将軍綱吉の正室)に冷泉大納言為秀卿筆の古今集、三の丸(綱吉生母桂昌院)に東下野守常縁筆の同集(古今和歌集)を捧ぐ」    (「徳川実記」)

※ 冷泉大納言為秀とは、冷泉為相の子。祖母が「十六夜日記」の阿仏尼である。
    二条家は藤原為家の後、二条家(為氏)・京極家(為教)・冷泉家(為相)の三家に分かれた。東胤行の妻の兄弟達である。
 
※ 郡上市八幡町の安養寺に、この冷泉大納言為秀の父・冷泉為相直筆の「伊勢物語」が伝えられている。布表紙で、縦横15.6センチメートルと正方形をしており、終わりに「藤為相(とうのためすけ)」と書いてある。藤為相とは藤原為相のことである。その文字はまことに格調高い美しさを持った筆致である。
   
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