司馬遼太郎氏の頃:「山内一豊の妻・郡上出生説」のデビュー前
“郡上説”は「諸説」にも入ってない!当然ご存知なかった!
小説「功名が辻」が書かれた昭和38年(1963)は、今(2007年)から44年前です。
作家・司馬遼太郎氏が38歳の頃です。(昭和38年10月から昭和40年1月に連載)
この山内一豊の妻の出生地は、「諸説ある」と言われております。 (近江若宮家説、郡上遠藤氏説、不破家説、安東家説がそれです。)
【司馬遼太郎氏は知らず】
ところが、この小説が書かれた昭和38年には、日本の図書館にある官本の中には「郡上説」は全く入っておりませんでした。
「郡上説」が世に出たのは昭和59年(1984)刊行の「大和村史」(郡上市)が初めてでした。
ですから、当然、作家の司馬遼太郎氏もご存知ありませんでした。(9年後の昭和47年(1972)8月、岐阜日日新聞が初報道)
司馬遼太郎さんから私宛の「はがき」(1994年・平成6年9月、郡上八幡城本丸跡の銅像の除幕式の際に出した手紙のご返事)
【若宮喜助友興なる人物は浅井家の史料の中には、いくら探しても出てこない】
今回の大河ドラマ「功名が辻」は千代の出生が近江・若宮氏の娘として設定されています。しかし、若宮喜助友興なる人物は浅井家の史料の中には、いくら探しても出てこない方だそうです。
また浅井長政家臣・若宮左馬助の娘「まつ」という説も誤りだったとわかりました。(※中老となる五藤為重夫人だったのです。)
安東・竹中は郡上遠藤氏と固い親戚グループに当たります。 不破氏との関係がもっと欲しいです。(※五藤家は後に家老職となる)
【山内家でも見過ごす】
御本家の土佐山内家ではその頃「一豊公紀」「忠義公紀」(2編)を出版されましたが当然、「郡上説」の記載はありませんでした。
しかし、発刊責任者の18代土佐山内家当主・山内豊秋氏は、「見性院」(山内一豊夫人)の記録が全くないことに疑問を持っておられました。
昭和59年(1984)、高知女子大学の丸山和雄先生の論文が出て、「郡上遠藤氏説」が注目を集め、山内豊秋氏も郡上へ何度か来られました。そして、数々の史料を検討した結果、ある本の序文(2002年=郡上八幡で)に「我家では郡上説を見過ごしてきた」「私の気持ちはだんだん郡上説に傾いてきている」と書かれました。(「一豊の妻見性院 出自の謎を追う」岩崎義郎著 リーブル出版)
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