不破氏を探る         2006年1月23日一部更新(2004年12月29日)

竹中半兵衛の妻遠藤慶隆(山内千代の兄・左馬助)の妻のすぐ上の姉である。共に西美濃三人衆と謳われた安東伊賀守守就(もりなり)の娘(高知女子大名誉教授:丸山和雄氏の論文へ)である。竹中半兵衛は秀吉に請われてその禄を食むことになる知略に富んだ武将である。不破郡垂井町に屋敷跡が残されている。その垂井町の宮の宮司が不破氏である。安東→竹中→不破とつながりが出来るが、ここへ遠藤の娘で永井隼人へ再嫁した母に連れられた娘が永井隼人敗走後、安東家あるいは不破家へ預けられ成人し近江の町で一豊に会うといった可能性もなきにしはあらずと思う。(身の安全を第一とするなら、秀吉の家臣となった一豊も同じく、妻も永井隼人の娘とは名乗られず素性を隠したと考えられる。)

 永禄7年(1564)、近江国境の岩手城の竹中半兵衛は、斉藤龍興に対し反目、稲葉城を乗っ取る。これに対し城外で安東一族が呼応するという事件があった。半兵衛の妻は安東伊賀守守就の娘、その妹を翌年遠藤慶隆が娶る。



※ 最近の高橋教雄氏(郡上市文化財審議委員長・元郡上高校教諭)の説では、千代は安東守就の養女(人質)になったのではないかといわれる。すると、安東系図のなかに、娘が山内一豊の妻になったというのがあり、俄然これが生きることになる。

どこかで聞いた話、
そうです!司馬遼太郎「功名が辻」で千代(若宮氏の娘とされる)の母(法秀尼となっている。「法秀尼」は一豊の母と近江町ではなっている)は夫が戦死したので姉の嫁ぎ先・不破市之丞へ千代を預け身を寄せる。市之丞は千代の婚礼に際し隠し金として金10枚をもたせた・・・
八幡城主・遠藤慶隆(千代の長兄)は、若い頃の山内伊右衛門と一緒に戦に出たときは遠藤左馬助といい、晩年は遠藤但馬守といった。父は遠藤盛数である。「功名が辻」の一豊の父・山内但馬守盛遠(木曽川町では盛豊)は永禄2年、信長に滅ぼされる。永禄2年東氏を滅ぼした遠藤盛数は信長に岐阜を攻められた斉藤龍興について3年後岐阜で病死した。近江八幡、郡上八幡、文字だけを見るとあれこれ惑いそう。今から43年前(昭和38年)の執筆当時は、郡上遠藤説は地元の一部だけで世間には知られておらず、ご存知なかったことです。今、司馬さんがご存命なら司馬さんでも混乱しそうであるが、
姉妹の話と不破の竹中半兵衛たち、謎が解けないでしょうか!

新撰姓氏録=不破勝  百済系渡来人

      不破連        多岐より分岐、不破を与えられる   

不破家譜=宮勝木実が壬申の乱の功により「不破氏」を名のる。

 

国衙領 国府(垂井) 宿駅は青墓か垂井

                  ↓

                 長屋氏

近江の浅井    秀吉の下

尾張の織田     竹中半兵衛 が支配重治→重門(元和の頃)→幕末まで

        

垂井=土岐頼康の勢力も       岩手氏は竹中氏に滅ぼされる

 

南宮神社東 垂井町宮代に祭神宮勝木実を祭神とする神社

         (従四位下)  

大領神社  表佐 勝神社→不破氏→不破勝

         勝氏明神

 (佐藤とき子先生のお話)より

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