京都・妙心寺の大通院正門。左壁に銘板が。
(このとき、豊秋氏より連絡を頼まれ岩崎義郎氏をステージ壇上へ案内しました。この八幡でのサミットの1年後の9月29日に氏は逝去されました。最後の思い出深いサミットとなりました。川上記)
  
中老・五藤為重妻(若宮氏女=マツ)の墓へ その後の新史料!「小牧山秀吉陣備表」2006年

山内家「一豊公紀」で、近江「長野家由緒書」を偽書と断定。(一豊死後、216年目に作られる)

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序文の内容  
 その後、山内家の調査でも「マツ」は一豊の中老となった五藤為重さんに嫁いだことがわかりました。五藤為重の妻・若宮氏墓に加え、最近では「マツ」の従者の手紙(「牛尾田文書」)や、「若宮外記仲間」の由来からもこの事が一層はっきり致しました。これで、一豊公の夫人だった「マツ」様は五藤家へ嫁いだことが確定しました。(後に五藤家は土居付家老に。)
一方、明治・大正・昭和の頃、国定教科書の小学国語読本の巻三(高等科)「山内一豊(かつとよ)の妻では「千代子」と書かれ、これから「千代」が定着しました。
郡上の遠藤氏説
 見性院はわが家の伝承では近江の若宮氏とされ、沼田氏(※沼田頼輔博士=山内家史編纂所長。注:川上)もこれを信じ、やがて郡上八幡遠藤氏説を耳にしたが、これを見過ごした感がある。戦後高知女子大学の丸山和雄先生により遠藤氏説が注目を引き、私も数回現地に行った。
私の気持ちはだんだん八幡説に傾いてきている。
本件の最新情報を網羅したのがこの本と思う。この序文は八幡町の一豊夫妻のサミット会場で岩崎義郎氏にお渡しした。
           平成14年10月5日  山内豊秋
山内一豊公の奥様の名ははっきりわかっておりません。ここにある山内家の廟所のある京都・妙心寺内大通院には、奥様の名前は「マツ」とされています。「一豊公紀」の御家伝并御武功記=A「寛政重修諸家譜」、「皆山集」、「高知県史」ともそのように記録されています。(※岩崎義郎「一豊の妻・見性院出自の謎」より)。また出自はずっと後になって一豊死後、216年後のこと)から近江の豪族若宮氏の娘さん(若宮喜助友興が女)と決められたのです。ところが、
消えた定説、山内一豊夫人の「マツ」様
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 山内家でぴか一(山内豊秋氏の表現)の一豊公の奥方の名前も出自もわからない?!。そこで山内家18代・山内豊秋氏が(弟の山内静材氏と)この問題の解明に奔走されました。そして、古くから系図の伝わる美濃・郡上八幡の慈恩禅寺へ来られることになったのです。郡上からの研究者との研究交流が深まり次々と新しい資料の発見が重なりました。そして、2002年(平成14)の郡上八幡での第9回「一豊公&千代様サミット」の席上、これら研究成果をまとめた「見性院の出自の謎を追う」(高知市・岩崎義郎氏の労作)へ序文をお渡しになり、氏の到達された現在のお気持ちをはっきりと書きしるされ衆目の見守る壇上で岩崎義郎氏にしっかりと渡されました。