岐阜城館長の郷浩氏との出会い
顕彰会は今から18年前の1985年(昭和60)設立されました。初代会長は父・川上与三吉でした。父と「一豊の妻」とのそもそもの始まりは、1972年(昭和47)8月、岐阜日日新聞(現岐阜新聞)に岐阜城館長の郷浩氏が「山内一豊の妻」郡上説を書かれ、その記事を手に持って父が金華山を登ったことでした。郷氏は「あの記事を見て動いたのはあなただけだ」と父をひどく激励しました。
京都・妙心寺の大通院へ私が父と見性院(山内一豊の妻)のことで一緒に行動をさせられたのは祖母の骨納めに京都へ行ったときでした。1975年(昭和50)10月と父は記録していました。山内家の菩提寺は八幡の慈恩寺の本山・妙心寺です。ここに一豊夫妻の墓があるということで父は私と弟(京都で大学生活を送った)の二人の息子を連れて妙心寺の大通院の門をくぐりました。廟の中に卵塔の二つの夫婦墓が納められていました。門の表の案内板にはカタカナで「マツ公室」と書いてありました。ふつう、「へそくりで夫に馬を買い出世をさせた山内一豊の妻」の名は「千代」と聞かされています。小川さんという方の「マツ」の話の説明を熱心に聞いた父は、非常に力を得て八幡へ帰りました。小川さんは、やはり見性院の出自の謎を話され墓の「マツ」に疑問をもってみえたからです。
父の研究は、持ち前の几帳面さと精力的な行動力とで更に熱がこもっていきました。慈恩寺他、郡上に残る系図をもとに、たきつけ役の同じ町内の村瀬幸吉氏(紋章絵師)、大和の高橋吉一氏(郷土史家)、静岡の西村登氏などと連絡とり、その輪を次第に広げていきました。自らを、研究者ではないが「パイプ役」と自認していました。
高知県立女子大教授の丸山和雄氏から土佐での研究も届きました。見性院の生家・遠藤氏の子孫が土佐にいること、その遠藤家の系図「御侍中先祖書系図牒」の発見と、家老の五藤氏の夫婦墓の写真など送られ、郡上説がグンと表へ出てきました。
「大和村史」が刊行、「山内一豊の妻」郡上説が世に。顕彰会が発足。1984年(昭和59)、「大和村史」が刊行され高橋氏の「山内一豊の妻」の一節が世に出ました。父は私に店の前に手作りの大看板を書かせました。そして1985年(昭和60)に「山内一豊夫人顕彰会」を発足させました。
城山公園に「山内一豊の妻出生の里」の看板を作り、銅像建立の寄付をはじめました。来年、30回目を迎える「郡上寄席」の超人タレント永六輔氏も父の熱意で応援に巻き込まれたようです。
寄付の一部で台座を作った頃、父の兄・川上傳吉が三千万円を越す私財を投じとてつもなく大きな「山内一豊と妻と名馬」の銅像を作りました。前の台座にはとても載らず別の用地を必要としました。町有地に立てそっくり町に寄付をする条件で借りた土地ゆえ父は苦悩しました。兄・傳吉は弟の事業のためにと財産を投げうち、先見の明というか大きい像を作ったのでした。父たち役員はどうか広い用地をと頼んだが、そんな勝手には町も応じなかったようです。
運命のいたずらやっとの思いで許可もとれて富山の高岡から銅像が運ばれる事を知った父は中日新聞の矢野信之記者宅でもそれを話しました。が、運命のいたずらか、銅像が郡上八幡へ着いた1994年(平成6)6月27日(月)は父の葬儀の日でした。心筋梗塞で急逝しました。心血を注いで造った前の建設予定地の庭園を壊したのが心の打撃でした。城山まで特別に霊柩車を廻してもらい、その中から立派に台座に据えつけられた像を見上げました。
その年7月、静岡県掛川市で第1回目の「一豊&千代サミット」が開催されました。父が死ぬ直前まで付けていた日記を見て、サミットには私が出席しました。多くの方の父へのご厚誼に感謝したい気持があったからです。車中、父の影武者の如く研究に協力してくださった佐藤とき子先生(八幡町文化財審議委員)から「郡上説」の話やこれまでの父の話などを、砂に水がしみこむように聞き入りました。
山内家当主・豊秋氏と弟・静材氏が父の仏壇にサミット翌日に現山内家の当主・豊秋氏と弟・静材氏が来幡し父の仏壇に参られました。
その後、同年9月に山田秀道会長代行の骨折りで、一豊の母の生家にゆかりの梶原拓岐阜県知事、山内家18代当主の山内豊秋氏、弟の山内静材氏やサミット参加の首長を迎えた除幕式が盛大に挙行されました。私は父の代わりに娘・八千代(父の命名で“八幡の千代”)と綱を引きました。出席案内の手紙を出した司馬遼太郎氏から葉書ももらいました。司馬氏は一豊の小説「功名が辻」を書いていました。
高知でのサミットと山田秀道会長代行の死翌年は高知でサミットがあり、飛行機でみんなで喜び勇んで行きました。帰って約一月後、山田秀道氏はガンで亡くなられました。
顕彰会は翌年、八幡町教育委員会・公民館の“ふるさと探訪”で佐藤とき子先生の講演を「見性院の謎を求めて」の冊子にまとめました。手作りの冊子で限られた部数を全会員へ配ったのですが、今にして思うと全く貴重な冊子です。これまでの研究をわかりやすくまとめあげたものであり、もし手元に持ってみえる方は大切にしてほしいと思います。
この年の秋に待望の八幡で「一豊&千代サミット」が行われました。この年はまた、郡上踊りの縁日踊りに「山内一豊夫人の夕べ」が加えられました。
山田氏の後、体の不自由さを押して木越保晴氏が私の前までずっと会長を務められ、高知の一豊勇士の像再建除幕式、一豊出生の愛知県木曽川町の一豊像の除幕式や一豊まつりなどに何度も駆けつけてもらいました。頭が下がります。
「広辞苑」の“山内一豊の妻”の近江説が消される岩波書店の「広辞苑」(第5版)の“山内一豊”の記述が変わり、近江説が消されたのを見たときは私も感慨無量の思いがしました。
巡りめぐって、昨年は八幡町では二回目のサミット(第9回)が開催されました。千代の兄・遠藤慶隆ゆかりの日吉神社大神楽がひどく好評でした。映画「郡上一揆」の神山征二郎監督が歴史と町づくりの講演を心安く受けてくださり嬉しかったです。
高知の岩崎義郎氏が労作「見性院の出自の謎」で郡上説などを網羅このほど高知の岩崎義郎氏が労作「見性院の出自の謎」を出版されました。岩崎氏は昨年のサミットにも父の仏前へ参られましたが、新たな一豊と遠藤慶隆の新資料など載せられてこれまでの千代と一豊の研究の集大成となっています。氏のご熱意に深く感謝したいし、諸氏にはご一読をお勧めいたします。(山内家第18代当主・山内豊秋さんの本書推薦の序文)
父・丸山和雄氏・松井久三氏・市原広一氏・山田秀道氏・川上傳吉氏などこの事業に心を燃やした方たちが今はもう亡くなられました。銅像建立後、明らかに風は郡上説に傾き、いま一豊の妻の仕事をしている私は、何の抵抗をも受けずに走り続けてきています。
数年前のある夜、夢で出てきた父は、「何も知らんはずのお前が・・・」と怪訝そうな顔をして私を見ました。内心わたしもニヤリと笑っていました。・・。多くの方が一豊と妻の名を忘れずに、この郡上八幡へ訪れられることを請い願っております。
2003年(平成15年)5月 <山内一豊夫人顕彰会 会長 川上朝史>
(山内一豊の妻) 山内一豊夫人顕彰会のホームページへ
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