郡上に於ける山内一豊夫人顕彰活動のあらまし 山内一豊夫人顕彰会(郡上八幡)へ

1.郡上説の起源(いつごろ、何のきっかけで、誰が始めたか)
  郡上の古い慈恩禅寺「東(とう)家遠藤家系図」に、初代八幡城主(遠藤盛数)の娘で2代目遠藤慶隆の妹が山内対馬守御室、など数多くの記録が残されていた。
  慈恩禅寺(八幡町)は、2代遠藤慶隆(左馬之助)が京都妙心寺の南化国師の高弟・半山を招聘して開基した寺であり、古文書が4冊伝え残されている。
  大正時代に「郡上郡史」編纂の折、村長や県議を勤めた戸塚鐐助氏が一稿を設ける予定だったが八幡町の大火などにより実現しなかった。
  八幡町の村瀬幸吉氏(大手町)がその跡を継ぎ伝えられた。
  昭和47年、岐阜城館長・郷浩氏が県立図書館の「郡上古日記」の記述を岐阜新聞に紹介し郡上説を強く訴えられた。
  これに呼応したのが川上与三吉氏(大手町:後に初代山内一豊夫人顕彰会長)だった。
  高知で研究を進められていた高知女子大学の丸山和雄名誉教授、静岡の西村登氏(郡上出身)、大和町の高橋吉一氏ら郡上内外の研究者とのパイプ役を勤めた。
  こうして研究の輪が広がっていった。
  昭和56年、山内家当主・山内豊秋氏も研究のため郡上へ入られ慈恩寺や川上宅を訪れた。
 
2.その後の大きな出来事の年代順列記
  昭和59年(1984)「大和村史」に山内一豊の妻≠フ一節が設けられ官本として初めて紹介された。
  昭和60年(1985)に山内一豊夫人顕彰会(川上与三吉会長)が出来る。今年で20年目に入っている。銅像つくりの募金など始まる。
  平成6年(1994)、八幡城本丸跡に大きな「山内一豊と妻の像」が出来た。9月の除幕式には山内家当主兄弟(豊秋・静材)両氏・岐阜県知事が参列。
  この年7月、掛川市で一豊&千代サミットが始まり参加した。
  以後、毎年開かれるサミットに参加。(2007年第14回郡上八幡で終了
  平成8年(1996)8月2日に郡上踊りの縁日おどり「山内一豊夫人の夕べ」を新たに加え、山内家(代理:松山克太郎氏)を迎えて本丸跡の銅像前広場で踊られた。
  以後、毎年続いている。
  この年9月、高知市高知城前での「山内一豊の像」再建式典に木越保晴会長と参加。
  この年10月、郡上八幡で第3回一豊&千代サミットが盛大に開かれた。
  郡上八幡では第9回も一昨年(2002年)開かれ、それが御当主(山内豊秋氏)最後となった。
  平成15年(2003年)ホームページを作り内外にアピールを始める。特に2004年7月より史料を使い充実に努める。
   
※ 追記:2009年10月に容量超過で一旦終了。(11年間、内容の更新ができなかった)
       2020年5月、杉本輝介氏(八幡町新町)の指導で10年ぶりに再開する。更新中。

3.一豊&千代サミットはいつ、どこから始まったのか。
   平成6年(1994)7月、掛川市で第1回一豊&千代サミットが開かれたのが最初。以後、10年続き、今年が11回目で掛川市で開かれた。
    (追記:2007年=平成19年、郡上八幡で開かれた第14回一豊千代サミットが最終回となった。NHK大河ドラマ「功名が辻」が実現した翌年です。)
 
4.八幡町の銅像は、誰が言い始めて、どのようにして建立したのか。
   高知県で土佐藩に仕えた遠藤氏の末裔が差し出していた系図を高知女子大学の名誉教授・丸山和雄氏が見つけて、これが郡上八幡の遠藤家の系図とピッタリ一致したのを機に、山内一豊夫人顕彰会が作られ(昭和60年・1985年)、夫人を顕彰する碑か像を作ろうという動きが始まった。川上与三吉が先頭に立って、多くの賛同者が郡上内外に出来た。用地は八幡城本丸跡を八幡町から提供され、寄付金の募集が始まったが、他の施設の寄付と重なり合ったりして思うように進まなかった。このとき川上氏の兄の川上傳吉夫妻が銅像の寄贈を決意し作ってくれたが、用地に納まらぬほどの大きさにしたため設置が遅れ、城山に設置されたのは平成6年6月であった。奇しくもこの日は川上与三吉の葬儀の日だった。9月に盛大な除幕式。梶原岐阜県知事や山内豊秋御当主らが出席。高知県知事祝電。なお、司馬遼太郎氏からは式典欠席の八幡町宛の返事とは別に、私宛のはがきに「父君のご冥福を祈りあげます」とのお言葉をいただいた。(9月1日付)
はがき表面へ
                 (山内一豊の妻)山内一豊夫人顕彰会へ


 20年目を迎える山内一豊夫人顕彰会(追記:2004年(平成16)8月の記事です)

 山内一豊夫人顕彰会が結成されたのが今から19年前の1985年(昭和60)です。それまでのいろいろな研究から山内一豊夫人については郡上の東家の流れを汲む遠藤家の娘、すなわち初代八幡城主・遠藤盛数の娘ということが確定的となり、その顕彰事業を行おうという趣旨でこの会が設立されました。
 最大の事業だった城山公園の「山内一豊と妻の像」が建ち、毎年8月2日は銅像前で郡上おどり「山内一豊夫人の夕べ」が立てられ、「一豊&千代サミット」へ毎年参加してきました。
 最も大切な研究面では、八幡町や大和町(現郡上市)、高知の方々や静岡の方々、大勢の方々の研究が郡上へ寄せられました。
 山内家の18代御当主であった山内豊秋氏(ご先祖インタビュー記事へ)もこれを研究され、終に確と認められるに至られた(「見性院の出自の謎を追う」岩ア義郎著の巻頭序文へ)のは4〜5年前頃のことでしょうか。
 明治以来の定説を覆すことは、回りの関係者、特にこれまで出身地とされた所の方々にご迷惑をお掛けすることになり慎重に臨まれてこられました。特に、11年前から始まった山内一豊とその妻・千代のゆかりの自治体が集う「一豊&千代サミット」に欠かさず出席され、感謝のお気持ちのこもったご挨拶をその度にされていたことを併せ考えますと、そのお人柄の大きさに奥ゆかしさをおぼえるところです。
 この間、日本で権威ある辞書の一つである岩波書店の「広辞苑」からも、その記述が訂正されました。
 山内家史を纏め上げた「一豊公紀」が出版されたのが1980年(昭和55)で、豊秋氏はその父・豊景氏の事業を継ぐお気持ちでこれを刊行されました。土佐入国以前の史実が少ないこともご承知でした。豊秋氏のご指摘どおり、その後いくつかの史料も出てきて、一豊の妻・見性院についても、またこれまで妻とされた「まつ」についても新たな史料が出揃ってきました。
 今回、力を入れている、講演「見性院の謎を求めて」(佐藤とき子)は今から8年前のものですが、その後も「山内一豊と遠藤慶隆(見性院の兄)の越中佐々攻めの陣立書」など遠藤氏と山内氏を結ぶ有力な史料が出てきています。 山内豊秋氏が熱意を傾けられた見性院の出自の研究は、高知の岩崎義郎氏が「出自の謎を追う」(リーブル出版)にまとめられ、その“序文”に豊秋氏の当時の最終的なお気持ちが込められています
 NHK大河ドラマ化はサミット関係者の長年の夢でしたが、再来年(2006年)に実現することになりました。謹んでこのことを昨年9月29日に亡くなられた山内豊秋氏にご報告するとともに、インターネットという一豊さんや千代さんが生きていたならばきっと驚く手法で、世界へ「一豊さんと、それを支えた千代さん」を広めてまいりたいと思います。 
                                     
 2004年(平成16)8月10日
                       山内一豊夫人顕彰会(やまうちかつとよふじんけんしょうかい)
                                    会長  川上 朝史

    山内一豊夫人顕彰会最初のページへ