20年目を迎える山内一豊夫人顕彰会(追記:2004年(平成16)8月の記事です)
山内一豊夫人顕彰会が結成されたのが今から19年前の1985年(昭和60)です。それまでのいろいろな研究から山内一豊夫人については郡上の東家の流れを汲む遠藤家の娘、すなわち初代八幡城主・遠藤盛数の娘ということが確定的となり、その顕彰事業を行おうという趣旨でこの会が設立されました。
最大の事業だった城山公園の「山内一豊と妻の像」が建ち、毎年8月2日は銅像前で郡上おどり「山内一豊夫人の夕べ」が立てられ、「一豊&千代サミット」へ毎年参加してきました。
最も大切な研究面では、八幡町や大和町(現郡上市)、高知の方々や静岡の方々、大勢の方々の研究が郡上へ寄せられました。
山内家の18代御当主であった山内豊秋氏(ご先祖インタビュー記事へ)もこれを研究され、終に確と認められるに至られた(「見性院の出自の謎を追う」岩ア義郎著の巻頭序文へ)のは4〜5年前頃のことでしょうか。
明治以来の定説を覆すことは、回りの関係者、特にこれまで出身地とされた所の方々にご迷惑をお掛けすることになり慎重に臨まれてこられました。特に、11年前から始まった山内一豊とその妻・千代のゆかりの自治体が集う「一豊&千代サミット」に欠かさず出席され、感謝のお気持ちのこもったご挨拶をその度にされていたことを併せ考えますと、そのお人柄の大きさに奥ゆかしさをおぼえるところです。
この間、日本で権威ある辞書の一つである岩波書店の「広辞苑」からも、その記述が訂正されました。
山内家史を纏め上げた「一豊公紀」が出版されたのが1980年(昭和55)で、豊秋氏はその父・豊景氏の事業を継ぐお気持ちでこれを刊行されました。土佐入国以前の史実が少ないこともご承知でした。豊秋氏のご指摘どおり、その後いくつかの史料も出てきて、一豊の妻・見性院についても、またこれまで妻とされた「まつ」についても新たな史料が出揃ってきました。
今回、力を入れている、講演「見性院の謎を求めて」(佐藤とき子)は今から8年前のものですが、その後も「山内一豊と遠藤慶隆(見性院の兄)の越中佐々攻めの陣立書」など遠藤氏と山内氏を結ぶ有力な史料が出てきています。 山内豊秋氏が熱意を傾けられた見性院の出自の研究は、高知の岩崎義郎氏が「出自の謎を追う」(リーブル出版)にまとめられ、その“序文”に豊秋氏の当時の最終的なお気持ちが込められています。
NHK大河ドラマ化はサミット関係者の長年の夢でしたが、再来年(2006年)に実現することになりました。謹んでこのことを昨年9月29日に亡くなられた山内豊秋氏にご報告するとともに、インターネットという一豊さんや千代さんが生きていたならばきっと驚く手法で、世界へ「一豊さんと、それを支えた千代さん」を広めてまいりたいと思います。
2004年(平成16)8月10日
山内一豊夫人顕彰会(やまうちかつとよふじんけんしょうかい)
会長 川上 朝史
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