25●安東家のこと(遠藤と山内を結ぶ家)
その次、永禄7年(1564年)近江の国境の岩手城というところの竹中半兵衛とという、これ、妻はですね安東家から行っておるのですが、この安東家というのは皆さん覚えていらっしゃいますでしょうか。東常縁のお兄さん、上から2番目のお兄さんの氏世という方が昔お婿入りをなさった家がこの安東家であります。東家からお婿入りをしていますので安藤の「藤」という字を使わないで絶対に「東」(とう)を使っていますが、この安東家であります。この安東家のお城は本巣の北方にあります。この安東家の一番の長男に伊賀守守就という方があるんですが、その守就という方の娘さんが、この竹中半兵衛という人のお嫁さんになっているんですね。もう、この安東家と山内家・遠藤家・永井家・竹中家・不破家などは全部親戚でがんじがらめになってるんですけれど。竹中半兵衛という方が斉藤龍興に対し反目して稲葉城を乗っ取りました。永禄7年(1564年)のことです。これに対して、安東家は親戚ですので、安東一族が竹中半兵衛に呼応して「ワーワーッ」と鬨の声を上げて応援をしたという記事が残っております。その時に、井ノ口(岐阜)の隼人の家に慶隆兄弟が遊びに来ていました。これはね月日まで分かっているんですよ。8月15です。そしてね、確かにこの時は、井ノ口の隼人の家に、お母さんの友順とその子供全部が集まってるんです。ここまでは確かな記録がございますので探れるんです。そこで次に一同はどうしたかというと、岐阜城を乗っ取るという騒ぎで岐阜の城下町が大騒ぎになりましたので、この隼人の所へ行っていた慶隆の親子たちは、今の山県郡(やまがたぐん)の深瀬村という所へ全部、難を避けました。これも記録がちゃんとあります。ここは本巣の北方の先ほどの安東家の勢力下であったので、このお城へ逃げていきました。しっかりとお母さんの友順尼のところに子供はくっ付いているわけですね。
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