24●母(友順尼)から見性院を探る      

 次に私が一つ考えましたことは見性院様の御身分を明かしていくために見性院の動きを探りたい。見性院がお父様の盛数にわずか三才で死に別れ、お母様は関の安桜城主の永井隼人のところへ再婚させられた。その時にその子どもさんである見性院様はどうなされたんだろう?。わずか三才か4才のお子さんですから、そこらへほって置かれるわけはありません。もうこれは絶対にですね、慶隆様兄弟の下の女の方はお二人はお母さんが連れていらっしゃるに間違いない。皆さんだってそうでしょう。御自分のお子さんがそういうことになったら、決してそんな小さい子を、母が生きている以上、離すはずはありません。しかも東家の血筋を引いた本当に素晴しいお母様ですから、二人の女の子をしっかり養育するために必ず手を引かれて連れておられる。そういうことが考えられます。そこで私が思いましたのは、この見性院様のお母様のお名前もわかりません。法名は友順尼、友順様と申し上げます。この友順さまの動きを探ればもしかしたら見性院の動きも分かるんではなかろうかというので、友順の動きをずーっと探っていきましたのが、この最後の細かい文字だけの写真も何もないプリントです。ちょっと急いで読んでみます。永禄5年(1562年)、八幡城主遠藤盛数、井ノ口(岐阜)で病死。永禄6年(1563年)頃、盛数妻、こどもを守るため(慶隆13才、見性院3才ころ)関城主の永井隼人に再嫁。永井隼人の屋敷が井ノ口にあり二人の娘は母と共にそこにいた。
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