23●慶隆と見性院(妙心寺と慈恩寺を結ぶ糸)

 その後、見性院は妙心寺への墓参りのとき男の子を一人お拾いになりまして(ひろい)と名前をつけましてお育てになります。そして後にですね、その育てられた子供を妙心寺へあげられるんですね。與祢姫のお墓のある妙心寺へです。このお拾様が後の湘南和尚、この上にお坊さんの絵が書いてありますね。これが湘南和尚様でございます。これは妙心寺の大通院という所にお入りになって、この方は円明国師、その当時の円明国師というのが妙心寺全体の一番の偉いお坊さんでいらっしゃいました。その円明国師の教えを受けられてこの妙心寺の中の大通院というところに入られる。そうして與祢姫の回向(えこう)をされたわけです。そこで一つ付け加えますと、この妙心寺の円明国師、南化(なんげ)円明国師と申しますが、この当時の一番のお弟子が慈恩寺を築かれた半山和尚様です。この半山和尚様を後にですね慶隆が、この郡上へ2回目復帰して来ましてから、慶長5年(1600年)から慶長11年(1606年)の頃、もう妙心寺へ足繁く通いまして、そうして半山和尚様にですね郡上へ来て教えを広めてほしいということをお願いになる。この半山和尚という方は、なかなか郡上なんかへ来られるお坊様じゃなくて、これは円明国師の次に妙心寺を背負ってたたれる、妙心寺の大将になられるお坊様であるはずだったんです。それをですね慶隆がお願いしまして、とうとう慶長11年(1606年)に郡上へおいでいただいたんですね。私思いますのは、これは一人慶隆だけの力ではないと思うんです。話が前後しますけれども、見性院は御主人の一豊さんが亡くなられて1年もたたないうちに、皆さんがとめるのも聞かないで妙心寺の付近へ行ってしまわれます。そうして一豊様のお墓も妙心寺にありますので、一豊様のお墓と娘の與祢姫のお墓のお守りに明け暮らされます。慶隆が妙心寺のほうへ行ってお願いをした時、見性院のことを当然半山和尚も知っておられますから、妙心寺の大将になられるような位の高い和尚様が慈恩寺へ来て下さったのではないでしょうか。陰に見性院のお力があったんではないかと思います。これは書いたものもありませんけれども、僧でなければそのような素晴しい徳の高い和尚様が郡上へおいでいただくという事は簡単にできることではないですね。慶長8年(1603年)一豊土佐守、大通院を建てる。この頃、慶隆、大通院に何回も行く。半山和尚に接する。その徳に打たれて郡上へお招きをする。慶長11年(1606年)半山和尚による慈恩寺の開基とある所を見て下さい。その次にですね慶長19年(1614年)・元和元年(1615年)に大坂冬の陣・夏の陣がありますね。そして元和3年(1817年)12月4日には見性院が京都で死去されます。その翌年の元和4年(1618年)に安右衛門三十郎が由緒を以って登用されたわけです。これは前にお話しました。そして寛永9年(1632年)に慶隆が死にます。それから寛永16年(1639年)には例の若宮から五藤家へ入られた「おまつさま」が亡くなっております。これはズーッと後のことですけれどね。これは大体ちょっと申し上げたんですが細かくて読めませんでしたのでプリントに又皆様目を通しておいて下さい。

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