そして、次に天正3年(1575年)に長篠の合戦がありまして、織田信長と家康の連合軍で武田勝頼と戦ったんですね。信長が鉄砲をたくさん持っていて、勝頼の方は馬で凄いっ戦争だったんですね。そして、これが済みました時に、また信長は朝倉の残党狩りを始めたんですね。慶隆はその案内役をしたりしています。そして、天正4年(1576年)になりますと、一豊は播磨の有年(うね)という所で700石をいただいています。そうして、ここの辺でですね、どうも一豊さんが結婚したらしい。どうして結婚のことがわかるといいますと、天正8年(1580年)頃に與祢姫(よねひめ)というお姫様が生まれている。話は飛びますが、さっき地震がありましたが、天正の大地震、この時にこの與祢姫がその下敷きになって死ぬんですね。一豊と見性院の間に生まれた子ですよ。6才で亡くなったといいますので、地震は天正13年(1585年)ですから逆算して大体の年代を出すわけです。その地震の前に一豊は長浜3万石を戴いている。段々出世しているわけですね。その後の天正15年(1787年)には対馬守をもらいます。一豊の奥さんに見性院がなられたときには一豊はまだ対馬守ではなかったわけですね。ちょっと後からもらわれているわけです。戦国時代の真っ只中で系図の整理は出来にくいので、一段落して整理をするというような事で、そのようになったのだと思われます。山内家の系図にもそのようなところがあるそうです。とにかく與祢姫が亡くなってしまいました。京都の妙心寺へほうむられましたがこの時の見性院は、実に一人きりのお嬢さんですから随分残念で力が落ちたことだと思います。
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