プリントに、この頃に、隼人が討ち死にとこう書いてあります。この隼人討ち死にということはどういう意味があるかということをちょっとお話します。これもですね、お話をしたことがあるので思い出していただけるかも分かりませんし、もう忘れてしまわれたかもしれませんが。永禄5年(1562年)に盛数が病気でなくなります。その亡くなりましたときに慶隆はわずか13才でした。下の見性院様は3才位で小さいお子さんばかりです。そこで家来達が13才の慶隆を守るために、関の安桜(あさくら)城主でありますところの永井隼人がちょうどその頃お嫁さんを病気で失っておりましたので盛数の奥方に、すなわち盛数の奥方は東常慶の娘でしたね。その方に慶隆を守るために永井隼人へお嫁入りをしてください、再婚してくださいと頼んだ。ところが東家のお姫様で誇り高い女性ですからものすごく怒られたんですけれどもみんなで頼んで永井隼人のお嫁さんにいってもらっていたんですね。その永井隼人です。すなわちこの永井家と遠藤家とは奥様でつながっているわけです。この永井隼人は一代信長に抵抗をした人で、永禄8年(1565年)以降、信長の美濃残党狩りを逃れるため、近江の浅井長政の所に身を寄せていましたが、天正元年(1573年)8月頃死去します。戦国のならいで山内や遠藤は信長方についております。
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