20●戦乱の時代
そこでもう一枚めくっていただきまして、ここのところ、見性院様の絵が付いている所に見性院様の一代のことを書いていますが、天正元年(1573)一豊は29歳の時、近江唐国(からくに)に400石をいただきました。これは今の長浜市の近くにある浅井郡虎姫町の一部でございます。次、同じ天正元年、信長の郡上攻めがありました。これは郡上まですぐには来ませんでしたが美濃市の立花までやって来ました。これはですね慶隆が安養寺と組んで武田信玄へ生き残りのため、信長にもいい顔して、信玄にもお手紙を差し上げて、信玄からも安養寺へ返事のお手紙が来てますね。「珍札被読・・」と書き出してあります。これは、いいことを教えてくれて有難うという手紙ですね。信玄がいいことを教えてくれて有難うということは安養寺が何事か信玄に都合のいいことを知らせてあげたということですね。それを信長が知りましてね、怒って郡上を攻めに立花まで来たことがある。これは慶隆が平謝りに謝りましてね許してもらったですけれども。その信玄がちょうどその年に死にます。全国制覇に向かって山梨から出てきたんですけれども途中で死にます。信長は、もうこれで後ろの方、すなわち山梨のほうの心配がなくなったので浅井・朝倉攻めを行いました。
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