26●永井隼人、信長から逃れる
その次に永禄8年9月、信長が関の安桜城へ襲い掛かりました。信長は、何でも信長の反対をする永井隼人は邪魔ですのでこれを攻めた。このとき隼人は、井ノ口の周辺の加治田という所へ出兵しておりました。そしてこの戦争の後、信長の誠に執拗な美濃の残党狩りというのが始まりました。そこで隼人は、もうそこにおることが出来なくて浅井や朝倉を頼るしかないので江州を頼って逃げていきました。そして永禄9年(1566年)、浅井長政のもとへ入ります。おそらく、その永井隼人と再婚したお母様と見性院は一緒に近江へ落ちているようなのです。信長の残党狩りというのはとても恐ろしく岐阜の周りにうろうろしておれない。だから浅井を頼りまして江州へ落ち延びていったのです。これも近江の「おまつさま」とこんがらがる一つの原因にもなるわけです。その次に、先ほど言いました永禄8年(1565年)、本巣北方の安東伊賀守の娘を慶隆がお嫁様にもらいました。これは翌年、女の子を生まれましたんですが、すぐ死んで終われました。それで残りましたお姫様を慶隆は育てられてこの娘さんが大きくなって飛騨の金森可重(ありしげ)の所へお嫁入りに行かれました。そしてそこで子供さんが生まれます。最初に生まれました子供さんが金森宗和という方でお茶の指南に入られるんです。これは後のことを一緒に話しているので皆さん頭がゴチャゴチャになるかもしれませんが。この金森宗和のお母さん(遠藤慶隆の娘)は、後に京都の室町に住まわれたので「室町殿」と呼ばれています。
その次ですね、永禄9年(1566年)8月9日、おまつ御料人の父親が戦死しまして、先ほど見ました浅井長政からの安堵状が届く。この安堵状には永禄9年閏(うるう)8月13日とはっきりと書かれてあり、浅井長政が直ちにこの安堵状を出していることがわかります。浅井長政は家来を大事にするよい人のようですね。永禄9年以降、隼人は主として近江におります。それは信長の美濃の残党狩りが厳しかったので母子ともに、この見性院たちも一緒に居ったのではないかと丸山先生もおっしゃっております。論文の中にもそのように書かれております。そうでないと危なくておる所がないわけです。信長という方は皆さんも知っていらっしゃるように中々冷酷な面がございましたので、許さないというと、どんなことでもやられる、お坊様を何千人と殺すというような、比叡山焼き討ちもしたことですから怖いんですね。
その次、プリントの11番目ですが、永禄12年(1569年)に飛騨の三木(みつき)自綱(よりつな)が郡上を攻めたことがあります。この時、慶隆は和睦を致しまして、前の奥様(安東家の娘)が永禄9年に亡くなっていますので、三木の娘さんをお嫁さんにされる。これは前の講座でお話したことがあります。
その次に12番、元亀元年(1570年)、信長が朝倉攻めを行いました。一豊や慶隆は一緒に秀吉の下に入りまして姉川の戦いに出ております。そしてこの姉川の戦いの時も遠藤は安養寺とともに信長と武田へいろいろ両面外交をやっておるわけです。
その次、元亀3年(1572年)本願寺の教如が、朝倉義景の娘さんをお嫁さんにしております。一方、元亀元年(1570年)から天正9年(1580年)までの10年間は石山本願寺を守るための石山合戦の最中で、教如はもちろん反信長勢力ですね。天正元年(1573年)、永井隼人が討ち死にします。永井隼人一族の18代子孫の永井源六郎氏(
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