27●美並村の乗性寺に母・友順尼の記録
ここに、大切なことがあります。見性院の母はこの頃に先ほどの教如様、この方に出会ったらしいんですね。そして、教えを受けましてここで法名をいただかれまして友順尼となられた。これはちゃんと記録がございます。見性院が山内一豊へお嫁入りしたのはこのお母さんが出家されてお坊さんの姿になられるこの少し後ぐらいかと思われるのです。説としては16才位というのもあるし14才位ともいえますし、ここんところはちょっと何とも申し上げれれない、まあ14〜15才というところでお嫁入りなさっている。先ほど話した與祢姫との関係からも大体このあたりであります。
そして次にこういうことを郡上の美並村のお寺からお聞きしましたのでお話します。美並村の乗性寺、ここは昔、戸谷庵とか戸谷坊と云いまして東家と遠藤家のお位牌やお墓のあるお寺でございます。この遠藤家のお位牌所に、寛政年間(1789〜1800)、これはもう江戸に入って165年ほど経っておりますけれど、その記録にこういうことが書いてあるそうであります。これも私、実地にまだ見ておりませんので一度見せて頂きに行って写真を撮ってこようと思うんですが、これは和尚様にお電話で承って書き留めたものであります。「照用院殿釈友順」、という項目があるそうでございます。この照用院殿釈友順というのが見性院様のお母様。「東六郎左衛門平盛数公奥方、盛数公永禄5年卒去後・・・・永井隼人方江御再婚、埴生(はぶ)太郎左衛門尉高照御附人ニテ岐阜江参り・・・・隼人討死後教如上人江発心シ照用院殿友順ト改名アル。」(点々の所は略してある)と記されており続いて見性院の母の付人の埴生太郎左衛門尉高照も教如上人の教化により「西教坊照山当山十七世トナル」と書いてあるそうです。当山とはこの乗性寺の17代をお継ぎになったということですね。
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