そこで皆さん、系図の上でそういうことがあり、その見性院にそれ程の史料があるならば、なぜ他の人だというようなことになって見性院というものが認められていなかったのか、ということが問題になってきますね。そこで一豊の妻は山内家の系図を調べてみますと、「おまつさま」と書いてあるんですけれども、この近江の出の「おまつさま」という方についてお話いたします。その「おまつさま」という方はどういう方かと申しますと、近江の坂田郡の方でして若宮左馬助(さまのすけ)という方の娘さんなんだそうであります。この若宮家といいますのは、結構いいお家柄の方なんですが、この方のお父さんは浅井家の家来なんです。皆さん歴史でよくご承知のように、浅井と朝倉は信長に徹底的に憎まれまして、滅ぼされる人たちですね。そこで浅井・朝倉は信長と絶対妥協しなかった。最後まで敵対していくわけですね。そこで信長に攻められるのですが、この「おまつさま」のお父さんである若宮左馬助様は永禄9年(1566)8月戦死をなさるんです。戦死をなさって、まだ「おまつさま」が子供でお母様もすぐ亡くなっておられるらしいんですね。そこで、若宮の一族の方の養女に出されたんだそうであります。そこで、或る記録によると、こういうことが書いてある。これは本当か嘘かちょっとわからないですけれども、記録にですね、「おまつさま」は、はじめ丹波の宰相秀勝の家臣で赤尾孫助という武士に一度お嫁入りをなさっている。そうして孫助が死んだ後に、この方は、五藤家へ再嫁した。そして内蔵助正友を生んだ。これは、五藤家へ行ってから正友を生んだという事でありまして、正友というのは五藤為重の子供さんであり為重の跡取りであります。こんな記録があるのです。
その次に、「おまつさま」の父の若宮左馬助のことなんですが、一つここで申し上げておきますが、実は遠藤慶隆も左馬助といった。前に皆さんにこれも話しましたが、八幡城一代城主の遠藤盛数が永禄5年(1562)井ノ口(岐阜)で病気で死にました時、長男の慶隆はわずか13才でした。だからその時に見性院様のお年は3〜4才位なんです。だから見性院様の後ろ盾をしている人が慶隆で左馬助、それから「おまつさま」の方も実際のお父様の名前が左馬助ということになると、ここでもこんがらがる一つの訳があるわけですね。後ほど詳しく話しますが、山内家の資料館にある資料にもいろいろ不明なもの、紛らわしいものがあり、これは一体本当の山内家のお嫁さんは誰だったんだろう、見性院は誰だったんだろうと、色々あったんですが最終的に東大の教授が、近江の「おまつさま」と判定されたらしいのです。
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