16●郡上・高知で研究交流進む
        大和村史・通史編上巻」に山内一豊の妻

 ところがその後、丸山教授とか、それ以前には先ほど言いました紋章学の権威である方(もう亡くなられた沼田頼輔博士)とか、多数の方々が資料館の色々な史料を徹底的に調べにかかられたそうなんです。山内家に残されている膨大な史料を調べていくと、近江の若宮の娘「おまつさま」ではどうも理屈に合わないところが出てくる。これはおかしい。そして一方で丸山先生が発見されたような御系図書きが出てくる。これは美濃の郡上じゃないか、おかしい、ということになりました。一方、八幡出身静岡県在住の西村登氏が大手町の故村瀬幸吉さんや川上さんと慈恩寺の調査、滋賀県史の研究、山内家御当主とのお話など基礎研究を始めて下さり、慈恩寺前和尚様も大変協力をして下さいました。また丸山先生と、岐阜城の館長をしておられました郷浩先生とお二人が、代る代る郡上においでになり、連絡を取られて郡上の史料を集められた。この間亡くなられました川上さんにどんどんと、高知の史料を送って下さったのです。高知の方でこのように「おまつさま」でないという史料が出て来ているので郡上の史料を送ってくれということで、川上さんが中心となりまして、どんどんと郡上の史料を送られた。そして大和町史編纂委員の高橋吉一さんも熱心にこれを研究してみえまして、郡上に残っている史料を送られ丸山先生も多数の史料を高橋氏へ送付して下さいました。そうしてですね、当時発刊された「大和村史」の中に、《山内一豊の妻》の一節を設け高橋氏が担当執筆されました。また、御殿様自身も、去年もいれますと全部で8回ほど郡上へおいでになって慈恩寺様へ入られて調べられた。そうして、郡上説がこうズーッと上がってきたんですね。そこで川上さんに史料が流されるもんですから、川上さんは、もうこのことに自分の半生を賭けられたわけです。ところが、「おまつさま」だという事が定説となっておりますためにですね、なかなか皆さんがそれを受け入れることができなかったのです。それから、前々からいろいろ遠藤の系図を調べている地元の方達の中にも、遠藤氏についてはまだ研究すべきところがあるというので、すぐには受け入れられなかった。だから川上さんとしては随分苦労をなさったわけなんです。


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