14●遠藤三作の差出し系図(丸山先生が驚嘆)  

 そうして次をめくって下さい。これをご覧下さい。これがですね先ほど調べておりました「御侍中先祖系図帳」の綴じてあるもので遠藤家の系図がズーッと書いてある所ですが、これは江戸時代後期に遠藤三作っていう方がこの高知の御殿様に差出された系図なのです。まだズーッとあるんですよ。一部ちょっと取っただけなんです。これに遠藤三作と書いてありまして、その最初のですね、ここのところをよく見ていただきますと、桓武天皇から始まってズーッと東家へ伝わって来て、その東家から遠藤家が出ておりますということが書かれているんですね。しっかりとこの系図に書かれている。これを見ますと、まさしく、この遠藤三作さん、すなわち慶隆弟・慶胤の子孫は、江戸後期の三作まで連綿として伝わっていることが、この系図でよく分かるわけですね。そのことでもう一つ大事なのは、この系図のここん所に、土佐藩士・遠藤三作の差出系図、として、世禄五石五斗、御留守居組、遠藤三作、この人の先祖は桓武天皇の末流・千葉常胤の六男・東六郎大夫胤頼11代の孫でございます。もう、東の子孫であるということを、しっかり書いています。そうしてその次へもっていって、六郎左衛門尉盛数、ね、盛数が出てきましたね。美濃の国、郡上の領主、遠藤但馬守慶隆弟、助次郎慶胤、慶胤さんですね!あの慶胤さんですよ。慶胤男、先祖遠藤安右衛門亮胤、これが遠藤三作‘私’の先祖でございます。本国は美濃でございますとしっかり書いてありますね。そうしてその次にこう書いてある。「六郎左衛門尉盛数女、慶隆・慶胤妹、山内対馬守一豊公御室と家系に之有り」これが殿様に出されたわけです。そうすると、祐筆の方が細かく調べられまして間違いがないかチェックされる丸とか三角とかバッテンとかいろんな印があります。遠藤三作のこの差出系図には少しも訂正箇所がなくて、そのまま受け付けられているのです。“私”の先祖の慶隆の妹の盛数の娘が、あなたのところの御先祖さまの奥方に入っておりますよと、自分がこれから仕えようとするお殿様へ書いて出しているのですよ。もしそれが間違いであるならばこれはここでチェックされて「なんていう無礼なことを書いておるか」といって突っ返されるところですが、そのまま受け付けられておるということは、お城方で認めていたと考えられますね。それで、遠藤三作、これは後の江戸時代後期の方ですけれども、その御先祖書が郡上の慈恩寺様やあちらこちらに残っております遠藤系図と全く同じなのです。それに丸山先生は驚かれたんですね。遠い郡上と高知の一致に非常に何とも言えないほど感激したということを研究報告に書いておられます。


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