13●遠藤安右衛門亮胤・三十郎(慶胤の子)、御由緒を以ち仕官

 そこで何がそんなに驚くのかと申しますと、この系図の遠藤慶隆の弟、慶胤さんのこのずーっと子供さんが並んでおられますが。数えてみて下さい。11人も、とてもお賑やかなことでありますが、母同前と書いてございますので全部お一人のお母様でございます。それでこのお母様は遠藤大隈守(木越遠藤の系統)という方の娘さんが入っておられるそうでございます。この方が慶胤さんの奥様になっておられます。そうしてこのお方がこれだけのお子さんをお産みになっていて、この一番最後が遠藤三十郎、又の名を安右衛門亮胤(やすえもん・すけたね)又もう一つの名に易右衛門ともいう。たくさんの名前があるのでややこしいですが、昔は何事かあると名前を変えますので小さい時と大きくなった時でも変えますし、たくさんのお名前があるんです。この遠藤三十郎という人は一体どういうことなのかと申しますと、一つ皆さん思い出していただきたいと思いますが、前にお話した時に、慶隆が秀吉に憎まれまして加茂郡の小原へ左遷されて領地をというか禄高を半分に減らされてしまって流された、憎まれてね。その時に小原とその隣の犬地という所をもらったのですが、その犬地へは場皿遠藤の系統の人、そして小原へはこの八幡の慶隆の系統が入ったんですね。ところが、それだけでは、とてもじゃないですが禄高が少なすぎて支えきれません。ので、1000石を“近江”の日野の荘という所に領地をくれたわけですね。そんな飛地を何故くれたのかと思いますけれども、まあそこが空いていたんでしょうね。その日野の荘、雪のよく降るところなんですが、日野の里とか日野の荘、そこん所へ、慶隆弟、二番目の慶胤さんが行かれたわけです。そうして、そこに生まれたのです。そこで遠藤家や関係のある大切な人を拾い出して、こういうふうに書き出してみました。(年表を皆さんに見せながら)ここは一豊、見性院のこと、慶隆のこと、慶胤の系統のこと、見性院の母のこと、その他のこと、というふうに、いつ、何をしたということを年代順にずっと書き出していくわけですね。そうすると、こういうようなものが出来るわけであります。これは見性院にまつわる大事な所だけを書いているわけなんですが。こういうふうにして書いて調べてみますとですね、この慶胤さんが近江へ行かれてから四から五年たってから生まれられたのが、この遠藤三十郎さんです。しかと、いつ、と言う事は申せませんが、大体4〜5年後に生まれておられるんですね。ですからこの三十郎さんは近江の生まれと言うことになる訳ですから、系図の上では近江の人というふうに言われる訳ですね。ここんところが見性院様が近江の国の人と間違う一つの原因ともなる訳なんですが。そこで、この三十郎さんは見性院が元和3年にお亡くなりになりますが、12月にお亡くなりになるんですが、その次の・・(ここで突然大きな地震が起こり、地響きがして講義が一時中断する。)・・長浜でも大地震が入りまして見性院様のお子さんがね、女の方が亡くなっておりますが。・・大変強い地震でしたですね。もしかすると揺れ返しが来るかもわかりませんが。よろしいですか、落ち着かれましたか。死ぬ時は一緒だと思って。(大笑い)。元和3年12月にお亡くなりになりまして、その次の年すぐに、この三十郎さんを土佐のお殿様が家来として御召し抱えになる。その御召し抱えになるときの書類はですね、これです。(写真)。これは実際にその時書いたものでなくて、その書いたものを山内資料館が本にまとめれれたものであります。本物は一つしかないので、まとめて書き写し本として発刊されたものからコピーしたのです。この中に「御侍中先祖系図帳」というのがありまして、遠藤安右衛門と書いてありますね。これが亮胤(すけたね)。これが先ほどの三十郎さんのことなのです。で、見性院がお亡くなりになると、すぐに江戸で御召抱えになったんです。その書類に「御由緒を以って」と書いてあります。この由緒を以ってということの具体的なことは判りませんが、これはどうもその見性院様の御血筋であるということで以って、召抱えられたのではないかというふうに丸山先生もおっしゃっております。「御由緒を以って」と、わざわざ書き加えられているのは重要です。そしてすぐ200石をもらい、次々と石高が上がっていっているのです。この書類も大切なものです。

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