鈴音御使


「姐様ぁっ、早くっ、こっち」

「ああ、リン、リンっ」

燃えさかる邸内を女二人が慌てふためき走っていく。
他の使用人達はもう逃げられた様子だが、
姐手伝いが逃げ遅れ邸内に残されていた。
当然それを捨て置けるわけのない甘鈴が、迎えに来たところだ。

「ああ、恐ろしい、もう、もうダメかもしれない」

「弱気なことを言わないでください、頑張って、ほら」

励ますが、相当厳しい状況は変わりない。
迷路のように入り組んだ大きな邸宅。
既に炎は大半を燃やし尽くし、逃げられる道がごく限られてきている。
炎の壁が出現することで、複雑な回廊は更に難易度を上げて迷路さながらになっている。

「ごめんよリン、さっきね、私、あの、鈴の音を聞いてしまったんだよ」

「鈴の音?」

「南鈴だったんだよきっと、ああ、また不幸が、恐ろしい、哀しい」

ぎゅぅと口を閉じて甘鈴は姐様の手をとって導いていく。
やはり南鈴なのか、私のこの鈴も。
涙が頬を伝う、額から流れる汗と入り交じり、ぐちゃぐちゃになる。
熱気にあてられながら、そして内からも呵まれながら、ただ走る。
この人を救わないといけない。せめてもの償いとして。
そんな事を考えながら、懸命に火の手の少ない方向へと走り続ける。
遠回りをしつつだが、確実に裏門へと近づいていった。

「そ、そんな」

「ああ、も、もう」

絶望の声が上がる。
目の前に本来なら抜けられるはずの出口が、炎と瓦礫に塞がれてしまっている。
先ほどの大きな音の時だろうか、派手にひしゃげた柱や壁が、
無惨にも炎を纏って行く手を遮っている。足が止まる二人。
だがその背中からも炎は押し迫ってきている。
絶体絶命の窮地に追い込まれた。
へたり、姐手伝いが腰から崩れてその場に座り込んでしまう。

「あ、姐様っしっかりっ」

「ああ、リン、ごめんよ、私を助けに来たばかりに、ごめんよ」

「違う、そんなじゃ、そんなこと言わないでくださいっ」

顔をくしゃくしゃにして甘鈴は声をかける。
だが、その当人は既に諦めた表情でゆっくりと微笑み返すばかりだ。
どうしようもない無力感がじわじわと心を浸食していく。
ボォオン、再び大きな音がして、凄まじい熱風が吹き込んできた。
どこかがまた崩れたらしい。
衝撃になぎ倒されて、思わず息を塞ぐ。
灼熱と思しき風が、容赦なく一帯を嘗めていった。

「げほげほ、あ、姐様、ぶ、無事ですか、姐様っ」

「リン、ああ、もう私はダメなようだよ、ごめんね、ありがとう」

「姐様っ」

怪我は無い、しかし今の熱風をまともに受けて、気をやってしまったらしい。
焦点が定まらない瞳がそれを物語る。
現実と夢の境が見えている表情で、薄く、ただ薄く笑いを浮かべている。
冗談じゃない、なんでそんな顔して、謝るんだっ。

甘鈴は声にも出さず、必至に脈を確かめる。
息は弱ってるがまだ大丈夫だ、でもすぐに涼しいところに移さないと。
焦る甘鈴、しかし、彼女は墨曜や他の御使と違い特殊な能力を持っていない。
先の通り、気立てが良いというくらいしか取り柄が無いのだ。
現状を打破できる力は何も無い。

「このままじゃ、いやっ」

ごうごうと炎は燃えさかる。
ぱらぱらと、また火花が散ってどこかが崩れた。
もう火が回りすぎていて、ここがどこなのかがわからないほどになっている。
落ち着こう、ちりん、胸元に潜めた鈴の所在を確かめる。
小さな鈴が、その音が心に均衡をもたらす。
そう信じている。裏手の門の近く、ということは厨房の側か。

「厨房…そういえば」

夕方の事を思い出す。
確か厨房奥、劉の部屋に抜け道があるとか言ってた。
思えば冗談で言っていたような気もする。だけどもうそこしか無い。
覚悟を決めた眉が上がる。倒れている姐手伝いを抱え起こし、
重い足取りでゆっくりと歩いていく。
火は頬を焼くように唐突に近づいてくる。
思わず目をふせるが、それでも足だけは止めないように。
やがて、目指した奥の部屋まで来た、驚いたことにここはまだ火の手が回ってない。
助かるかもしれない。その一縷の望みに賭けて、弱々しい足取りは奥を探る。

コト、音がして壁が外れた。
これに違いない、真っ暗な細い道が続いているのが見える。
迷っている暇は無い。すぐに気持ちを確かにしてそこへと足を踏み入れる。
薄暗い、だけど蒸し風呂のように暑い。
そこかしこから煙が吹き込みつつあり、
身をかがめて進まないと煙に巻かれて命を落としかねない。

「姐様、もう少しだから、頑張って」

声をかけるが返事はない。
それでもまだわずかに握られた手が、ぎゅぅと小さくなったのを見て生を確認する。
私が助けるんだ。
必死になって一歩ずつを踏み出していく。
出口までかなり距離があるらしい。
みち、みち、と足下から湿った感触が昇る。
沼ではないが、湿地のようにじめじめとした薄暗がりらしい。
だからこそか、まだ焼け落ちていないんだろう。
甘鈴は息を上げて先を急ぐ。
知らない内に、はぁはぁと犬のように口を開けている。

「?あたま、いた、ぁ」

前に進まないといけない。
だけど身体から力がするすると抜けていく。
くらくらとして、急に目の前がぼやけて歪んだ。
次の瞬間、つんのめって倒れた。
べちぃ、嫌な音と感触、だけど意識が朦朧としていて起きあがることができない。

暑さと酸欠のせいだ。

しかしそんな状態だと解るわけもない。
細い暗がりは、元々の酸素量が少ないのに、この火事であらかたを消費してしまっている。
ひゅー、ひゅーと喉を鳴らして、甘鈴の本能が空気を欲しがる。

「…いけない、早くしないと」

だけどもう、頭が、意識が混濁してきた。
ぐるぐると目がまわり、ただ気分が悪いのだけがずっと止まないでいる。
四肢には力が入らず、唐突に眠気のようなものが襲ってきた。
もういいか。
そんな声が、頭のどこかで響いた。
起きあがろうとした身体がまた崩れる。

ちりん。

!いくない。
こんな所で倒れては、私はまだ何もしていない、
恩を返していないのに。覚醒する意識。
鈴の音が私を勇気づけてくれている、天帝様のご加護がある。
ちりん。
呼応するように胸元の鈴はもう一度囁いた。
気持ちをもう一度立て直し、姐手伝いを再び抱き起こす。
倒れたことで沈降していた酸素を取り込み、意識を取り戻したわけだが、
そんな理屈なぞ知るわけもなく、奇跡を鈴に結びつけることで、
甘鈴の五体は気持ちとともに蘇った。
残った力全部を振り絞るようにして、息を止めてそこを抜ける。

みちみち、相変わらず湿った足音がしている。
間違いなく進んでいる。
やがて、どん、と音がして行き止まりに来た。
いや、行き止まりじゃない。

「出口っ!!!」

わけもわからず、壁を叩いて探す。
絶対にここが出口なんだ。
その期待に違わず、ガゴ、と戸板が外れて外が見えた。
どしゃ、潰れるようにして出口の側へと倒れ込んだ。
すぐに身体をよじって、傍らの女性を確かめる。

「姐様、助かった、助かったよ、姐様っ」

「…北鈴の音が聞こえる。りん、ほら聞こえるでしょう?」

ちりん。
切ない音色が、甘鈴の姿をそのまま顕わしたように震えた。
助けることができた、いや、その感慨よりも、北鈴と呼ばれたことへの喜びが、
堰を切ったように涙となって溢れた。

「あ、姐様、姐様」

姐手伝いは、優しい顔で泣きじゃくる娘を見守った。
しかし、その消耗は激しい様子でとうとう意識を失った。
甘鈴は静かに姐様を抱き寄せ、目一杯に抱き締めて、
その身体を安全な場所へと移す。
他の手伝い達が駆け寄ってくる。
それぞれが人の良い姐手伝いに心配を向けている。

もう大丈夫だ。

ちりん。
甘鈴はもう一度「北鈴」を鳴らした。
任務の終了を告げる音が、炎に燃える夜に泣いた。



「劉が、やってくれたか」

「残念だな、そうでもない」

ぞくっ、先の台詞の主である県令は、小動物のようにその身をすくめた。
かぶせられた声が、よもやこの場に居るなどと、考えられない事実に怯えた。
その喫驚が顔と態度に現れている。
屋敷の傍らだが、甘鈴達手伝いとは、ちょうど反対の位置にあたる場所。

「バカな、今頃屋敷中央で」

「は、そこらの若い鈴と同じと思うな、錠前破りなんざ朝飯前だ」

じり、県令は後ずさる。
そしてその目にまさに「悪人」墨曜を映し込む。
憎むような視線の後、すぐに唾を飛ばして言葉を浴びせた。

「おのれ、治世を阻む愚か者の手先めっ、貴様らの邪魔立てのせいで、
どれだけの民が苦しみ、どれだけ平和の世が遅れると思うてかっ」

「よく言うぜ、宰相府の小才者が」

「ふん、これだから蛮は知性を知らぬ、我が志の高さを計れず…」

「たかだか県令無勢が、帝と同じ視線で物を語るなっ」

大喝。
ごうごうと邸宅の燃える音がそのほとんどをかき消している。
だが、その炎に煽られる表情が憤怒の形をより一層はっきりとさせている。
気圧されるように、また後ずさる県令。

「志なぁ、己の領分だけで飽きたらず、他の領地の民草まで集めようと、
他領地を荒らす小賢しい茶番を打った。なるほど、
確かにこの領地内だけは治安がよく、交易も盛んで、
全てがうまく回りだした、お前の狭い世界だけでな」

「なにを…」

「いつ何時、誰がてめぇにそんなことを許した?たかだか県令の若造が、
天の意志を語り布くなど、それだけで重罪となるのがわからんか。
思い上がるなよ、頭ばかりではしこく生きる、能書きタレの分際がっ、
治世と名ばかりの児戯ではないか」

「結果が、この街の評判が私を求めてやまない、何よりも確かなことだ」

「その口利き、お前は、なんだ、双六でもしているつもりか?」

「すごろ…」

「お前のその頭だけで考えた狭い世界を本当の人間に施し、結果を見て微笑む、
サイコロ振ってコマ進めて一喜一憂するのとどこが違うんだよ、ぁあっ!?」

ぐぅ、黙る県令。
その目は鋭く睨み付けているが、その実、
身体はガタガタと止めようのない震えに犯されている。
目の前にいる男が闇と炎とを背景に、大きくなっていくような錯覚を覚える。
このような下等な男に、崇高な意志を止められるわけにはいかん。
あくまで自分の志を立てにして、再度口を開こうとした。

「黙…」

「種明かしをしてやろう」

「な?」

「お前のやってきたコト、一つ一つの説明をしてやろう」

刺客の語りに押し黙るしかない県令。その瞳にまたおびえが走った。

「1つ、身の上不幸な奉公人を雇うことで奉仕の建前を作った。
そんな輩に優しくすれば、自然と少しの善意が大きな噂となって広まる。
お前はそのために、そういう可哀想な人を雇った。
2つ、街の繁栄によってたくさんの人を助けるという建前で、
その実、宰相府での地位向上を願った。その為、
わざと同じ宰相府方である隣街の治安を貶め足を引っ張り、己の評判を上げた。
そして3つ、料理人の劉は情けというエサで盗賊として雇ったが真意は別だ。
あの男の右手が不自由なところに目をつけた。そうだな、左利きの県令様」

「…ふん。よくよくそこまで調べたものだな。並べ連ねられるとこうも腹が立つとは」

言葉遣いが激変した。
当然顔つきも、雰囲気も伴った。
同時に腰の刀を抜く。左手で抜く。
繕うのをやめた様、本性を顕わした県令は、
さばさばとした調子で、舌打ちをして墨曜を罵る。

「言う通り、隣町の治安を乱したのは、俺自身だ。
見られてはかなわんからな、皆殺しだ」

「万が一、こんな時に劉を身代わりにできると思っていたんだろうが、
あいつは殺しから離れ過ぎていた。俺から見れば無理のある話だった」

「それは考えすぎというものだ、俺はそこまで期待していない。
お前のような奴と、相打ち程度になればと思ったまでだ。
残念だがそれすらもできなかったようだがな」

きゅん、刀を大きく振って構えた。
今までとは打って変わって、暗殺者のような身体の置き方をする。
何人も殺してきているせいだろう。
そんな風格にも似た、禍々しいものがまとわりついている。
墨曜は、黙って睨み付ける。

「まぁ、お前を消耗させたのは確からしい、それだけ喋ってもなお、
お前の体力は回復していまい?茶番は終わりだ、
ここまでバカ話に付き合ったことを感謝しろ」

余裕の微笑。
いや口の端を上げるような笑い。
血走る目、しかし、真っ黒な瞳が冷たい。
その瞳が、きゅるり、音がするように墨汁が紙に染みたように、
じくりと影を強めた。刹那、大刀が火事場の夜に閃光を走らせる。

ずばっ!

「安心した、お前が本当に嫌な奴でよかった、心おきなく仕事ができる」

「なっ!そんな、何時の間に」

一撃が放たれたが当たらないどころか、県令は背中側に墨曜の気配を認める。
一瞬にして、陳腐な優位は崩される。崩落する自信という岩盤。
焦りと浅はかさが、汗とともに滴り飛び散る。

「この南部移民崩れがっっ!」

ちりん。
叫ぶ声、それを遮るように響く鈴の音。
不気味なほどよく通るそれは、火事場の横とは思えない程判然と、
怜悧な刃物のような研ぎ澄まされた音色を奏でる。
耳に残る音は、冷たく、高く、硬い。

「そうだよく分かってるじゃないか、俺は南から来た『鈴』だ」

「貴様、そうか鈴音御使の南鎮守『朱雀』っ」

「運が良かったな。聞け。これが本当の『南鈴』の音だ」

ちりんんんっっっ。
反響するように辺りが震える。鈴は一際甲高く啼いた。
ごうごうと続く業火の声に一滴の雫を落とした様が想起される。
そんな冷たくて哀しい音色が炎と闇夜の彩る世界に溶けて消えた。

「天より響く鈴の音の下に、天誅」

ちりん。

つづく

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(09/01/02)