続17●岐阜城館長・郷浩氏、「郡上古日記」で郡上説を主張!

 
これが出ました時には、もうこれは疑う余地がない、この事を聞きました川上さん達は、これはもう黙ってはおれないと。他所からですね、丸山先生や他所の研究者の方から、どんどんこのような史料が流されて来れば、もう郡上は立ち上がらざるをえない。丸山先生や郷先生(郷浩岐阜城館長)も郡上も立ち上がってくれと、いうふうにこちらへ申されたわけですね。ですから、本当にもう郷さんなんか気違いくらいになって、「県立図書館にある『郡上古日記』にもちゃんと書いてあるんだ。郡上ボケボケしているな」と、いうことでだいぶん喝(カッ)を入れられたわけなんですが。そこで川上さんが矢面に立たれまして、半生をこのために尽くされたといってもいいくらいに努力をされたんです。(高知でのサミットのときお目にかかった現在の五藤家の大奥様も「おまつさま」は五藤家にいらしてるんですよと、はっきり話して下さいました。)ところが、なかなかそれが、一つの定説というもの、学会が認めている学説というものを変えるには普通100年かかると云われたものです。学説を一つひっくり返すことはとても難しい事なんです。そこで丸山先生たちがその筋へ、こういう史料が出ているから、これはおかしいから調べ直してほしいということを陳情をしておられる。おられるんですけれど、学説を変えることは大変なことだもんですから、まぁ暫らく待ってくれということで、今(1996年)はまだ学説としては「おまつさま」になっておりまして、「お千代様」にはなっていないんです。でも昔の教科書には「千代」とはっきり書いてありましたから不思議なことですね。しかし、これだけの史料があるんだから、これをうやむやにしてはもったいない。だから何とか銅像などを建ててやりたいというので、川上さんのお兄様(故川上傳吉氏)が銅像を寄付して下さいまして、台座は一般の方々の御寄付であの本丸跡に建ったわけですね。もちろんその前(1985年)に、一豊夫人の顕彰会が設立されて活動しておりましたが。

                                           
  
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