35●安東家の藤巴(ふじどもえ)の紋のこと

 それから。もう一つ調べておりましたところ、先ほど申しました文、お手紙を入れる文箱ですね、その藤巴の門が付いていた。(これも徳川実記に書かれている)彼がですね、どこの紋かと申しますと先ほどの安東家の紋なんであります。安東家は先ほど言いましたように東常縁の次兄の氏世(うじよ)がお婿入りをしている家であり(ずっと前のことですけれども)、しかもあらゆるところで遠藤家と安東家とは関係が深い。そのことは前にお話しましたように見性院も見性院のお母さんも安東家のお家へかなり行っていたんですね。安東家のほうへお世話になっていましたので、そこでおそらくいただかれた文箱を見性院が大切にお持ちになっていたんではなかろうかと思ったのですね。これは大変有力な史料であると思ったんですけれども、お殿様のお言葉によると若宮家も藤巴の紋なんだそうです。これもこんがらがる理由なんですよね。そこで、一つ今もって判らないことは藤巴に葉3種類ある。一つ巴、二つ巴、三つ巴という藤のこれがキューッと、こうねじた、その3種類ある。そこで美濃の谷口村の汾陽寺というお寺に目を付けたのです。この安東家は天正10年(1582)信長の重臣・稲葉一鉄(八幡城第3代城主・稲葉貞通のお父さんです)に攻められまして滅びてしまう。前にお話しましたように安東家へは一豊様のお姉様の通姫という方が、お嫁入りなさっていましたね。お子さんもあります。ところが安東家は城がなくなってしまい、一族の方は全部戦死されてしまった。そこで一豊が通姫と子供さんと一緒に引き取って土佐の方でお育てになった。その安東家のお位牌が美濃の谷口村の汾陽寺という非常に古いお寺の中にある。ですからもしかしたら昔はお位牌の上にその家の紋を付けることがよくありますので、川上さんにお話しましたところ川上さんが連絡をとっていろいろ調べてくれたんです。ところがですね、それが付いていない。一つ巴か二つ巴か三つ巴かも勿論判らないんです。そこでもし安東家の御紋がどれか、一、二、三のうち、これがピタッと一致するのか違うものなのか、これは藤巴の謎とでも言いましょうか。まだ調べなければなりません。とにかく色々な面から見性院を、長年、川上さんのお父様が研究されたのですが亡くなってしまわれましたので、私がその後をちょっとまとめて話さしていただいておるんですけども、ご子息の川上さんも一生懸命走り回っておって下さるんですが、まだまだ調べなければならないことが多いのです。

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