それからこういうこともあるんですね。見性院様がお亡くなりになったときの話なんですが、《元和3年(1617年)12月14日》見性院様は京都でお亡くなりになる前にですね、ご自分が拾って育てられた「お拾い」、彼を妙心寺へ入れられまして、そこで湘南和尚となられておって、いつも見性院の側にいるわけですけれども、彼を枕元に呼び寄せましてね、2代目藩主の山内忠義公へその湘南和尚を通じましてお形見を渡されるんです。このことは山内家の記録にあるので私の作り話ではありません。そのお形見が、記録を読みますと、見性院様のお大切の品というふうに書いてある、そのお大切の品を湘南和尚に渡される。その渡されたものの中にですね「古今和歌集」が2巻入っているんです。その古今和歌集は東常縁直筆だったんです。これはですね大変なことです。それから御料紙、文箱、けったんの文箱と書いてあります。けったんというのは、ここのところ字が消えていまして何のことかわかりませんが、不箱(ふばこ)と書いてあります。このくらいのお手紙などを入れる机の上に置かれますところの箱ですね。まだ他にも徒然草などもあるんですよね。見性院様はこの古今和歌集をいつも読んでいらっしゃった。古今和歌集を身辺から離されなかった。徒然草も常に机の上に据えていらっしゃる。そしてそれを大切な品として忠義公へ渡してくれと湘南和尚にお渡しになった。翌年頃に湘南和尚が忠義公にお届けになる。その物がもう少し経ちましてから、山内家から徳川家へ献上されている。その献上された中に東常縁公の直筆の古今和歌集もあったんですね。〔これは、徳川実記にはっきり書いてあります、〕そこで。今の世の中ならいざ知らず、この時代に直筆の巻物なんていうものは、やたら手に入るものではありません。これはですね、見性院様のお母様が東家のお嬢様であり、そのお母様に最期まで手を引かれておいでになった見性院様に「東常縁公の直筆の古今和歌集」などが渡された。この流れしか考えられないですね。それは見性院様が東家から遠藤家への流れを引いていらっしゃる方だからこそ、東家にとって非常に尊い常縁公の直筆の巻物が見性院の手元に渡った。これが山内家に入った。そして徳川家へ献上された。ということですね。母の友順さまはとてもしっかりした女性であることが随所のエピソードに表れています。おそらく14〜15才まで連れて流浪されている間に、古今和歌集のことなどをしっかりと見性院に教育されたと思います。私がもしそのお母さんだったら東家の娘としてきっとそうしたと思います。
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