29●母子、身の上を語らず流浪
以上のように見性院様とそのお母様の友順様の動きを年代的に調べてみると永井隼人と信長の関係で、信長の残党狩りから逃れるため、近江の浅井長政の方へ行っておられることが推察されるのですね。その上、山内一豊も兄の遠藤慶隆も信長の陣営について行動しているのは前にも話したとおりですから、自分が東家や遠藤家の筋であるということを話すわけにはいかないのですね。身の上を語ることは自殺的行為であるわけですね。見性院は、わずか3年くらいしか八幡に住むことが出来ず、お母さんが永井家へ再婚以来、井ノ口(岐阜)・深瀬・北方の安東家・近江方面と、母と共に流浪の身の上なんですね。この時代はまさに戦国時代の最中で、全く目まぐるしいのです。けれども慶隆と山内一豊はいつも一緒に行動しています。その間に、常に安東家(北方)・不破家・梶原家がいつも動いているんです。安東家の娘さんが慶隆のお嫁さんであった事は前に話しましたが、一豊の妹の米姫が永井隼人の甥の源兵衛利直と結婚とか、一豊の姉の通姫が安東家の養女になったあと安東伊賀守守就の弟・郷氏の奥方になっているとかですね、そして見性院も安東家へ身を寄せており、系図のなかには(美濃諸家譜)安東守就の娘が「山内一豊室」と記しているのもあるんです。安東家と永井家は、もともと同族なんですね。(土岐氏の重臣)そんな関係で、一時身を寄せたりしている娘さんなどがいくらでもあるわけです。
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