7● 見性院の出自(初代八幡城主遠藤盛数女)       目次(その1)へ

 次に今度は、こちらの見性院様の方ですね。皆さんこちらの、もう一つのテキストの方をご覧頂きたいと思います。この一番最初のテキスト、題は「見性院の謎を追ってと言うふうに書いておきましたんですけれども、先ほど慈恩寺様などに直接書いた文字で残っている系図をご覧頂きましたが、このプリントの一番右っ側に載っていますのはあの系図を活字にまとめたものです。本当の字は見にくいですので、それで活字に致しました。一番上に郡上に残る系図といたしまして、まず遠藤氏の系図、遠藤氏といっても沢山あるわけですけれども、一番上に遠藤盛数、遠藤盛数が八幡城の第一代のお殿様であるということはもう前々勉強したことでありますが、この遠藤盛数さんに子供さんがあります。(プリントによる)。慶隆、これが長男でございますね。この方は第二代城主で盛数の後を継がれる方ですね。それからその次、慶胤っていう人なんですね。慶隆の慶という字で同じ字で、胤という字はずーっとご先祖の千葉常胤の胤をとっておりますね。その慶胤。その次に、慶直。そして女、女となりまして一番最後に山内對馬守様室とあり御母は右の方たちと同じですよと言うふうに書いてあります。お殿様ですとお嫁様が沢山ございますのでお子さんの名前の下の方にお母さんはどなたですかということが、ちゃんと書き入れてあるんですね。そこで、もしかすると沢山の系図を見ておりますと、女、女、と二人女がおりまして最初の女の方のところに山内一豊様室と書いてあるのがございます。ほとんどが一番最後の方が一豊様の奥様になっておりますけど、中にはお姉様の方が一豊様の奥様というふうに書いてある系図が出て参ります。けれども、ほとんどが一番終いになっています。慶隆兄弟の一番下の妹が結局、山内一豊様の奥様になった、ということになる訳ですね。 
 
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