6●山内(やまうち)家の起源(土佐山内家宝物資料館へ)

 そこで名前につきましてはそのようなことなのですが、その山内家と言うのは、どんなお家なのかということについては皆さんのテキストのほうには詳しく書いてはおりませんけれども、簡単に申しますと山内家と言いますのは藤原鎌足、皆さんよくご承知の藤原鎌足からずーっと連綿と続いたお家柄なんですね。そうして、ずーっと後になりました時に、俊通(としみち)というお名前の方がありまして、この方が鎌倉の山内の庄という所にお住まいになったんですね。そこを領地とされたんですね。その時からこの方を山内と言うふうに申し上げる。その以前には首藤と言うふうに呼ばれておられた時代もあるのですが。鎌倉の山内庄に住まれましてから山内と言う土地の名前が苗字に付いたんですね。そうしてその一族は鎌倉を中心にしてズーっと各地に広がっていきます。その広がって行った一つが尾張に移ってこられまして、盛豊という方が岩倉の城主でありました織田信安(織田の一族ですね。)という方の家老を勤められた。これが中部地方に山内家が、一豊さんのご先祖が来られた道筋であります。ところが永禄2年(1559年)織田信長の岩倉攻めというのがございまして、その時から段々山内家も没落していくんですね。そうして一豊とお母さんとは主人の家が没落していきますので、あちこちを流浪をされるわけですね。その流浪が始まったとき一豊さんは15歳ぐらいだったそうでございます。そう言うふうにして一豊さんが出発されるわけですが、あちこちの戦争に出られてお手柄を次々と立てていかれますので遂には土佐一国をもらわれることになるんです。

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