5●郡上の系図(長滝寺経聞坊・慈恩寺など)        

 
そこで、どうして語られ続けられていたかというと、今日、皆さんにお渡しをいたしましたこの資料ですね。二つございますけど、系図が付いている方をちょっと見ていただきたいと思います。この一番上の細かいのは、これは長滝寺の経聞坊というところが持っておりますのを整理したものであります。その中のここに山内對馬守室(やまうちつしまのかみしつ)とございますね。これが見性院様のことなのでございます。それから次めくって下さい。次のは慈恩寺様にあります系図の一つなのですが、たくさんの遠藤系図とか畑佐系図とか色々あるんですけれども、その中のこれは慈恩寺様にあります遠藤系図の一つなんですけれども、右から少し来ましたところにごちゃぐちゃと線で囲っておきましたが、そこに山内對馬守様室と書かれていますね。これが見性院様のことでございます。それをずっとたどっていただきますと、一番右方にありますのが慶隆、二代目と四代目の八幡の城主を勤めましたところの遠藤慶隆ですね。この方の妹で一番終いの妹が對馬守様室になっているのですね。普通の系図ですとね現在のものならばここにお名前が書かれるところなのですが昔は女としか書いてもらえないんですね。昔は女の人は数に入らなかったんでしょうか。男の方はしっかり名前が書かれているのですが女はみんな女、女としか書いてもらえない。そこで名前が載りませんのでまたそれが色々な謎になったり、疑わしいことになっていく訳なんですけれど。また一つめくっていただきますと、これはまた別のもの(慈恩寺)なんですけれども、確かに右の方から五つ目にですね、女、と書かれて山内對馬守一豊室、これに一豊というお名前が入って室というふうに書かれておりますね。やはりこれも慶隆の妹ということになっております。で一番最期のは、これは縦書きになっておりますけれども、やはり慈恩寺様にあるのですけれども、これには一番終りから3行目の下のほうに「女子にて山内對馬守」、その次には「もととよ」と書いてございますね。だけど字は「一」という字と「豊」という字なんですが。一豊室(もととよしつ)となっております。これにつきましてはですね、非常にお堅い方はもととよと書いてあるからにはこれは別の人だという理論を言われるんですけれども、これに付いてですね、現在のお殿様「山内豊秋氏」、一豊の御子孫の現在のお殿様が話されたことですが、(殿様の話し方を真似して)「私の家では“かつとよ”とよんでおります。」というようなお話の仕方をなさるんですが。そのお殿様の著書を見ますと「“一”という字は日本ではすべての数の元で普通は“かず”と読むのか慣わしである」と書いておられます。“一”って言う字は“かず”と読む。だから“かずとよ”と読むのが本当であろう。だけれどもやはり戦に出られる方でございますので縁起を担いで“かつとよ”というふうにお城の方では呼ばれていたようでございます。だから、仮名がですね“かつとよ”と打ってあるんですね。ご本家の本にもそう書いてあるので現在のお殿様も(殿様の言い真似で)「かつとよ」と言うようにおっしゃいます。(笑い)本当にゆっくりものをおっしゃいます方でね、お殿様らしいお殿様でございまして、「かつとよ」と、とても特徴のある言い方でおっしゃいます。だから、「かずとよ」でも「かつとよ」でもこの系図のように「もととよ」と仮名を打ったものもこれは皆同じお方で山内一豊様のことであると言うふうに申し上げて間違いのないことだということであります。


   次へ進む⇒  目次(その1)へ   ←元へ戻る

(山内一豊の妻)山内一豊夫人顕彰会のホームページへ