今晩のお話で先生が、一豊の室(見性院)の甥である遠藤安右衛門が御由緒を以て見性院の死んだ元和3年12月(1617)の翌月の1月(1618)に200石で土佐藩に召抱えられたことを、見性院の遺言ではなかったかと言われたことが印象的でした。 ただ単に安右衛門(三十郎)は見性院の甥に当るから御由緒≠ナ、としか思っていなかった私にとって新しい認識≠ナした。実の子がなく出生を隠した見性院が、実家の遠藤家から身内を土佐藩に迎えることで、実家への恩返し、更には自らの出自を400年後に解き明かさせる深慮遠謀≠ワで用意していたのでは、と考えると身震いがする思いです。
 「古今和歌集」「徒然草」を二代藩主・山内忠義に渡すように、と湘南和尚(一豊夫妻が育てた子供・妙心寺)にいったのも遺言でしたから大いに納得できました。
 この「古今和歌集」に郡上領主で東家11代目の東常縁直筆のものが含まれていたことは、これが後に将軍綱吉の母・桂昌院に渡ったことからほぼ確実といってよいでしょう。見性院の母が東家の娘(13代東常慶娘)だからです。
「城下まち夜ばなし」 山内一豊の室(千代)の遺言
郡上市文化財審議委員  高橋教雄先生    2005年9月27日夜  八幡中央公民館で
パソコンを使ってスクリーンに映写してお話しされました。
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