千代(見性院)と拾(千代夫妻が育てた子)と古今和歌集(家宝)
千代の最期
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元和3年(1617)12月4日(61歳)
慶長10年(1605)高知で夫・一豊が亡くなります。
千代は忠義が跡目を襲封し二代目となるのを見届けると、一豊死後半年もしない翌年3月には京都へ戻ってしまいます。
彼女の心には幼くから育てた「拾」の顔が大きく浮かんだ事と思います。
そして12年後、京都で最期を迎えた彼女は・・・
東常縁直筆「古今和歌集」形見に
見性院(千代)
湘南和尚(=拾)
「古今和歌集」
湘南和尚
22 見性院の最期とお形見 見性院様は、晩年は京都で母親・友順尼から送られた「古今和歌集」「徒然草」などを机上に置き東家伝来の和歌の勉強とお墓参りに明け暮れておられました。 1617年(元和3年)、見性院様はご病気にかかられました。重態になられたとき、枕元に湘南和尚を呼ばれ、見性院様お大切の品として、料紙箱・(東常縁(直筆などの)「古今(和歌集」「徒然草」などをお形見として2代目藩主・山内忠義公へ渡してくれるよう固く言いつけられました。山内家に渡されたこのお形見は、後に幕府に献上されたことが「徳川実紀」「寛政重修諸家譜」に記されております。(下へつづく) 「寛政重修諸家譜」へ
見性院がお亡くなりになったすぐ後のこと、見性院の2番目の兄・遠藤慶胤の末子、遠藤三十郎を江戸で土佐藩に召抱えられました。この三十郎の子孫・遠藤三作の土佐藩への差し出し系図が当慈恩寺に伝わる東家遠藤家系図とぴったり一致したことが判ったのは今から20数年前のことでした。また、その御子孫の遠藤春海氏が土佐の南国市にてご存命で、遠藤家の歴史を伝えておられたという事実を知った時は、夢のような喜びでありました。