郡上一揆(郡上藩宝暦騒動)年表(その8・完)(郡上一揆の会作成)

 判決が下されて、その後・・・            郡上一揆の会へ

1758年(宝暦8)

 12月27日 丹後国宮津城主・青山幸道(よしみち)が郡上藩主に任命される。


1759年(宝暦9)


   1月16日  前谷村定次郎(31歳)、歩岐島村四郎左衛門(39歳)、寒水村由蔵(39歳)の斬首された首が
           塩漬けにされ、役人の警護のもと郡上へ届く。
      18日〜20日 定次郎ら3人、穀見の刑場で獄門(さらし首)、16人の役人が警護する。


      23日  改易になった旧藩主・金森頼錦を、97人の南部藩士が召し連れ江戸を出立、盛岡に向かう。

    2月 7日  近江国代官が藩命を受け、家来50余人を率いて来郡、暫時郡上を統治する。
       9日  金森頼錦が盛岡に到着。収容される。
      24日  江戸に残った百姓はすべて宿を引き払う。


1762年(宝暦12)

      
村人が建てた那比村・藤吉の墓が金森藩の残党により上下に破壊され、川へ捨てられたという。
         明治になり、別々に引き上げられ安置された。


1763年(宝暦13)

  6月 6日  金森頼錦、南部藩(盛岡市)で病死(50歳)。腰や腹に浮腫、5月下旬より病状が悪化していた。

1766年(明和3)

  4月25日 金森頼錦の遺子が赦免される。うち、6男は禄米1500俵を賜り、旗本となった。


     お断り  各町村史をはじめ、郷土史家の皆さんの著作から勝手に引用して作成しました。
          写し間違いや解釈の間違いなど誤りも多かったかと思いますが、お許し下さい。
                                      (郡上一揆の会)

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