郡上一揆(郡上藩宝暦騒動)年表(その1) (郡上一揆の会作成) 郡上一揆の会へ
郡上藩主・金森氏のこと
1586(天正14)年〜1692(元禄5)年
金森氏6代・頼 、高山城主を勤める。
1692(元禄5)年〜1597(元禄10)年
金森頼 、出羽の国(山形県)・上山(かみのやま)藩へ所替え。
1697(元禄10)年6月
金森頼 、郡上藩へ移封。八幡城主となる。
検見(けみ)取を定免(じょうめん)制にし家臣を減らす等、善政を行う。
1736(元文元)年5月
金森頼 死亡。68歳。孫の頼錦(よりかね)八幡城主に。23歳。
郡上121カ村2万4千石。越前69カ村1万5千石、計3万9千石。
1744(延享元)年
8代将軍徳川吉宗の命により、頼錦は八幡城で天文測量を行い納める。
1745(延享2)年 将軍吉宗が引退、長男・家重が9代将軍となる。
1747(延享4)年 5月
頼錦、幕府の御奏者役に任ぜられる。(奏者役は、将軍の所へ来る大名
達の名や献上品を披露し将軍の下賜品を伝達する役。
※ 頼錦は、温和な性質で風雅を好み、絵画をよくし、詩歌に親しんだ。白雲水(宗祇水)などの碑を建て、「白雲集」を編纂した。また、吉宗にならって目安箱を設け、民衆の声を聞こうとした。しかし、頼錦の風雅な生活と奏者番としての社交的な散財が、もともと貧しい郡上の農民達にしわ寄せされ、一揆となる。
1754(宝暦4)年 郡上一揆始まる(1758年まで5年間も続く)。
※ 郡上藩では、これまでも増税を実施してきた。・生糸は4倍に・畳や障子に
まで課税。そして、今度はこれまでの定免制から検見取りに切り替えようと
百姓達に迫った。まず、検地の達人の黒崎佐一右衛門を用人に召抱える。
定免制・・・毎年、決まった年貢を納める
検見取り・・毎年、収量を量り、それに基づき年貢を取る。
(これは、一見、合理的だが実は百姓には絶対不利となる)
同年 6月
検地を始める。農民が反対する。隠し田(生活のための荒地を開墾した)・
切り添え(田畑の地続きの開墾地)があからさまとなり課税増加は必至。
役人の測量にも不信が募る。上・中・下の田畑の等級判定への疑問深まる。
7月12日 増税反対を、小駄良口の庄屋たちが藩の御蔵会所へ願い出る。
次(年表 その2)へ続く