郡上一揆(郡上藩宝暦騒動)年表(その2)
1754(宝暦4)年
7月15日
16日 郡中の庄屋・組頭が那留ヶ野へ集合、嘆願書を作り署名押印する。
17日 郡中の庄屋が藩庁へ出頭、嘆願書を提出する。
20日 藩庁が各村の庄屋を呼び出し、検見法を申し渡す。
26日 庄屋たちが藩庁へ出頭、検見実施を断る。
8月 2日 郡内121か村の庄屋や主だった百姓が、中桐村(八幡町初音)
南宮神社に集まり傘連判状を作り団結を誓う。
3〜4日 郡奉行宅へ、庄屋が検見取撤回を嘆願、取り上げられず。
(映画の感動シーンが瞼に浮かんできます)
10日 郡中百姓数千人が八幡城御蔵会所に押し寄せ、検見取取り消しと
16か条の願書を認めさせる。
検地のプロ・黒崎左一右衛門が夜逃げしたという風評に、百姓は大喜び。
16か条の内容の一部
◎ 年貢の金納分、相場より5割高いから相場並みに。
◎ 納める薪、相場より安いから相場並みに
◎ 生糸税を前の通りに下げてほしい。
◎ 親戚への贈り物、番所での課税廃止を。
◎ 年貢米を量るとき箕を高くしない。
◎ 牛馬通行税の廃止等
9月 9日 郡中百姓、南宮神社へお礼参りに行く。
1755(宝暦5)年
1月 郡上藩江戸屋敷が画策して挽回策を考える。
郡上藩用人宇都宮東馬が、江戸家老伊藤弥市郎らと相談、巻返しを図る。
親戚の老中本多正珍(まさよし)の家臣と相談、分家の寺社奉行・本多
長門守忠央(ただなか)に口利きを依頼、勘定奉行・大橋近江守を通して
笠松の美濃郡代・青木次郎九郎へ書面を送らせる。